不妊治療がきっかけ…気付いた夫の優しさ 結婚11年、見つけた「等身大の形」
復刻連載・私たちも、産みたい~夫が不妊の場合<5>
午後10時を過ぎたころ、夫が店の前に現れた。「お待たせ」。伝票の整理を終えて駆け寄ると、夫は器用に車いすを回転させて、駐車場に向かった。
会社員の夫が休みの週末は、送り迎えを買って出てくれる。家まで車で20分の道のり。平日は自ら運転しているから苦でもない。でも、心遣いがうれしい。不妊治療をしていた5年前までは気付かなかった優しさだった。
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一つ年下の夫に出会ったのは24歳、車いすテニス大会の会場だった。運営を手伝うボランティアと選手。食事の後に「付き合ってくれないか」と打ち明けられ、毎日電話してくる情熱にほだされた。
20歳のとき、労災事故で脊髄を損傷した夫。プレーのうまさはもとより、日常生活全般を一人でこなす姿に「身障者」という認識はなかった。だが結婚、出産となると違った。母親は、自宅にあいさつに来た夫を見て、寝込んでしまった。
「性生活も含めて夫婦というのよ。子どもはどうするの」。母親は、夫とは性交渉ができないことを見抜いていた。とっさに「普通にできるよ。子どもも産めるよ」とうそをついたのは、脊髄損傷の男性も体外受精で子どもを授かることができると聞いていたからだ。孫の顔さえ見せれば納得してくれるだろう。
結婚翌年から、病院にバイアグラを処方してもらったが効果はなく、不妊治療に踏み切った。
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顕微授精10回分の精子を採取する夫の手術は成功した。だが自分は、排卵誘発剤の副作用で卵巣が腫れ、腹水がたまった。水を抜きにいった地元の病院では「こんなに大量の薬は危険だ」と言われた。受精卵を子宮に戻しても、妊娠判定日の前に次の生理が来て、着床に失敗したことを知る。その繰り返しだった。
夫は「そんなに無理してまで子どもをつくらなくてもいい」と止めた。4回の治療を終えた後、自ら「少し間を置こう」と持ち掛けた。体力以上にお金が続かなかった。夫の手術が約30万円、顕微授精が1回約40万円。行政の補助は微々たるものだ。外食や旅行を我慢しても、なかなか報われないことにいら立った。
「私も働く。お金たまったら、また治療しよう」。洋服店でパートを始めた。頑張れば頑張るほど、結果がついてくる面白さにのめり込んだ。働きぶりを認められ、新しい店の店長として正規採用された。
午前9時から午後10時までのハードワーク。以前は家事をしたことのなかった夫が「おまえが倒れたら労災申請してやるぞ」と愚痴をこぼしながらも米をといでくれたり、洗濯をしてくれたりする。いつの間にか治療のことは忘れていた。
病院で凍結保存していた精子は廃棄してもらった。
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4年前、わが家に子どもがやって来た。児童養護施設で暮らす子を、盆正月や週末だけ預かる季節里親制度。幼児を希望したが、来たのは親に虐待された高校1年の女の子。無断外泊するなど最初は荒れたが、20回近く一緒に過ごす中で、落ち着いていった。施設を出て自活する少女とは、今も時々会っている。
「血のつながりがなくても、子どもって無条件にかわいいんだと気付いた。2人とも退職したら、本格的に里親をするのもいいね、と夫と話してるんです」
結婚から11年。べたべたすることもない。一緒に旅をする時間もなかなか取れない。でも、今の自分たちに合った等身大の夫婦の形だと思う。
この記事は2011年3月19日付で、文中の年齢、肩書、名称などの情報は全て掲載当時のものです。
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2011年、著書「私は、産みたい」で不妊治療を告白した野田聖子衆院議員が出産し、話題を呼んだ。あれから9年。少子化には歯止めがかからず、不妊に悩む夫婦は後を絶たない。この間、「家族づくり」を取り巻く環境はどう変化したのか。男性不妊を取り上げた当時の連載を読み返すと、答えが見えてくる。