民主主義への誤解 誰かが「負ける」ことを避けるのが政治

西日本新聞 文化面

 民主主義とは何か? いまこの問いが切実さを増している。日本学術会議の会員候補6名が任命拒否された問題では、その理由が説明されないまま、つじつまの合わない国会答弁が続けられている。この任命拒否を擁護する意見の多くは、選挙で国民に選ばれた政治家が判断を下すのが民主主義である、というものだ。

 私自身、民主主義とは選挙による多数決だと思ってきた。でもかならずしもそれは正しくない。そう教えてくれたのが、9月に急逝した人類学者デヴィッド・グレーバーだ。彼は『民主主義の非西洋起源について』(片岡大右訳、以文社)で、民主主義が国家権力を行使する代表者の選出を意味するようになったのは、近年のことにすぎないという。もともと民主主義(デモクラシー)とは、民衆( デモス )の力/暴力(クラトス)を意味し、歴史上、エリート層にとって民衆の暴動や暴徒支配を指す言葉だった。権威主義的な体制下では、一般民衆が自分たちの意志を表明する唯一の方法が暴動しかなかったからでもある。

 一般に、民主主義は古代ギリシャ以来の西洋の伝統だと信じられてきた。しかしグレーバーは、そもそも歴史的に一貫した「西洋」など存在せず、時代を遡(さかのぼ)れば、西洋諸国でも民主主義はずっと否定的なものだったと指摘する。

 古代ギリシャは、歴史上もっとも競争的な社会のひとつだった。運動競技も哲学や悲劇も、すべて公の場でなされる競争に仕立てられた。グレーバーはそれが、政治的意思決定が公の場での採決になった理由ではないかという。重要なのは、その決定が武装した民衆によってなされていたことだ。多数を決める採決とは、乱闘になったら、どちらが勝つかを明確にする行為であり、力による「征服」と同義だったのだ。

 この民主主義という言葉が欧米で一般に用いられはじめたのは19世紀半ば、西洋列強が広大な植民地を手にした時期だった。地球規模の暴力的侵略が進み、国内では民主的な大衆運動が抑圧されるなかで、民主主義の理想が西洋起源だという理論がにわかに広まった。

 グレーバーは、この大きな変遷を経てきた民主主義のひとつのルーツを、世界中のさまざまなコミュニティーで実践されてきた同意を得るコンセンサス・プロセスに見いだしている。コンセンサスによって意思決定する社会では、採決は最悪の選択になる。誰かが「負ける」からだ。それは屈辱や憎しみを増幅させ、最終的にはコミュニティーを破壊しかねない。とはいえ全員一致を目指すわけでもない。誰もがその同意を拒もうとまではしないような、反対意見の人も消極的に黙諾しうるような、妥協と意見のすりあわせが重要になる。当然、多数決よりも高度な政治的技量と対立を煽(あお)らない思慮深さが求められる。

 採決をして多数派の意見に全員が従う多数派民主主義が機能するには、反対者に一方の意見を強要する強制装置が欠かせない。それが国家だ。19世紀半ばに近代国家が民主主義を掲げたのは、その強制装置による国内外での暴力行使を人民の名において正当化するためでもあった。

 グレーバーの示す民主主義像は、私たちの身近な問題にも直結している。先日、大阪市の廃止と特別区の設置を問う住民投票が行われ、1・2ポイントの僅差で否決された。反対派は「勝利」を喜び、賛成派は「敗北」に肩を落とした。しかし賛成派も反対派も同じ市民であることに変わりはない。目の前の課題が選挙の勝敗で解決されるわけではない。どんな方策があるか、ともに知恵を出し合って議論していくほかない。それが政治だ。

 グレーバーは、古代ギリシャで重要な公的行事だった政治集会が、権威主義的なローマでは剣闘士の競技などのサーカスに置き換わったという。米国大統領選挙後の混乱をみても、選挙だけが過大視される勝敗民主主義の危険性はあきらかだ。それは競技場での見世物のような熱狂をもたらし、同時に敵味方の分断を生む。そして勝負がつけば、やがて人びとはショーが終わったかのように関心を失う。そこから政治がはじまるにもかかわらず。

 グレーバーの洞察は、選挙に勝てば何をやってもいいかのような政治家の言動がいかに危ういか、多数派が勝者とされ、その意向だけが政治に反映されることが社会にどれほど破壊的な影響をもたらすか、私たちに考えるよう突きつけている。

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 ◆松村圭一郎(まつむら・けいいちろう) 1975年、熊本市生まれ。岡山大准教授(文化人類学)。京都大大学院博士課程修了。エチオピアでフィールドワークを続け、富の所有と分配などを研究。「うしろめたさの人類学」で毎日出版文化賞特別賞。近著に「これからの大学」「はみだしの人類学」。

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