負傷兵搬送無我夢中で 中国で活動、使命感が支え 元従軍看護婦

西日本新聞 熊本版 村田 直隆

 太平洋戦争中、多くの従軍看護婦が戦地で活動する日本兵を救護するため国外に渡った。熊本県水俣市市渡瀬の蒲地ハルエさん(97)もその1人。終戦前年の1944年に中国・南京の陸軍病院に派遣され、度重なる空襲で負傷者が絶えない中、救護活動に奔走した若き日を振り返った。

 「負傷した兵隊さんが100人くらい入院していたから、何も経験がない私たちは大変だった」。中央に赤十字の記章がついた紫の帽子を手に取り、蒲地さんは感慨深げに話した。

 蒲地さんは23年、5人きょうだいの長女として同市に生まれた。15歳で水俣実務学校(現水俣高)を卒業。5年前に3歳上の兄が病死し、女きょうだいだけが残り「私1人だけでもお国のために第一線で働きたい」と決意。京都市の日赤看護婦養成所で学び、20歳の44年春、従軍看護婦として召集令状が届いた。

 出発の日、水俣駅で家族や多くの学生に見送られ「感謝の気持ちがいっぱいで涙も出なかった」。行き先もわからぬまま、屋根のない列車に揺られた後、船で中国へと渡った。

 南京第一陸軍病院に着いてすぐ、マラリアにかかり40度の熱が続いた。「1日も勤務せず、もうしまいかな」と心が折れかけるも何とか回復。銃を持って伏せや前進を繰り返す兵士と同じ厳しい訓練にも耐えた。

 記憶に鮮明なのが、空襲で負傷した兵士を病院に搬送する仕事。夜中に「ドーン」というごう音で跳び起き、病院敷地内の寄宿舎から現地に走った。うめき声を上げ苦悶(くもん)の表情を浮かべる兵士。「暗闇でまたいつ爆撃されるか分からない状況でも、不思議と恐怖はなかった。一刻も早く患者を運ぶことしか頭になかった」

 病院ではけがで入院していた将校5、6人の看護を担当した。当直になると、少人数で入院患者約100人の世話をした。重傷で寝たきりの人も多く、新米看護婦には「荷が重かった」。排せつの介助などに走り回った。

 息を引き取った兵士を霊安室に運ぶことも。ある夜、10人ほどの遺体を収容した部屋の前で震えている看守役の兵士がいた。「怖いでしょ。でもあなたがいるから皆さんは安らかに眠っていられる」と話しかけたところ、うなずいた姿が忘れられないという。

 めまぐるしい日々を過ごし、45年8月15日。同僚と天皇陛下の玉音放送を聞いた。「戦争は終わったけど、外地にいたし、これから先どうなるか心配だった」。その後も看護活動を続け、46年1月に上海陸軍病院に移動。3カ月後に病院船「高砂丸」で帰国した。

 戦後、50年以上助産師として働き、県助産師会水俣支部長も務めた蒲地さん。「戦争で亡くなった方々のおかげで私も健康に過ごせている」。平和な世が続くことを願い、柔和な笑顔を浮かべた。 (村田直隆)

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