防塁と史実 郷土史家が激しく論争 元寇碑と平和(上)

西日本新聞 ふくおか都市圏版 下村 佳史

今津は「殲滅」の地か

 鎌倉時代、蒙古の再襲来に備え、博多湾岸に20キロにわたり築かれた元寇(げんこう)防塁。中でも最も保存状態が良いとされる福岡市西区今津の高台に「元寇殲滅之處(せんめつのところ)」との銘を刻んだ碑が立つ。

 完成したのは大正初期。当時から「殲滅」という言葉の的確性を巡り、論争が繰り広げられた。そのやりとりに目を向けると、日本が二つの大戦へと突き進んでいった時代の空気が読み取れる。

 賛否両論が渦巻いたこの碑が持つ意義を後世に残そうと、地元では修復に向け寄付金を募る動きが起きている。これを機に、この碑を取り巻く歴史を見つめ直してみた。

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 論争したのは、建碑の推進役となった木下讃太郎と、元陸軍軍医の武谷水城(たけやみずき)だった。ともに郷土史の権威。1916(大正5)年7月の除幕式で、木下は元寇史跡保存顕彰会長として式辞を述べた。

 木下はこの中で、文永の役(1274年)に続く弘安の役(1281年)では今津の防塁が防御の軸で、鎌倉幕府軍は防塁に拠(よ)り健闘。船から上陸できなかった元軍は颶風(ぐふう)(強く激しい風)に遭って防塁の下で滅んだとし、今津が殲滅の地との見方をした。

 武谷は、この2カ月後に発行された郷土史研究誌で木下に対し、痛烈に反論した。弘安の役で、元軍は朝鮮半島からの東路軍と、中国からの江南軍の二手に分かれて出発。東路軍は博多湾に襲来したが、沿岸に防塁が築かれていた。このため、防塁のない志賀島や海の中道から攻め込もうとしたが、幕府軍の反撃に遭ったという。

 武谷はその後の東路軍について志賀島近海などで、江南軍は長崎県松浦市・鷹島近海で、颶風に襲われて船が沈没したと論証した。

 戦況については、さまざまな説がある。松浦市教委の文化財調査報告書は、東路軍は博多湾から後退し壱岐を経て江南軍と平戸付近で集結。鷹島沖に移ったとき暴風雨に遭ったとする。

 ただ、今津で元軍が殲滅されたことを明確に示す文献・遺物はない。武谷は「日本帝国空前の一大国難の史実史跡を蹂躙(じゅうりん)し、大いに天下後世を誤る」と木下を非難した。

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 建碑は町村長ら地元各界の名士が発起人となり寄付金を募って実現した。1913(大正2)年10月、寄付を呼び掛ける趣意書が出された。その中に「殲滅」の文字は見当たらない。

 「文永の役でも、幕府の御家人は元軍を撃退し、陸に拠点を築かせずに撤退させた。ただ、すっかりと滅ぼすような戦いではなかった。殲滅の地とするのは先鋭的な考え方」。市博物館の堀本一繁・主任学芸主事はこう指摘する。

 建立の準備が進む14年7月、第1次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した。この戦争で、日本は中国大陸で支配を強めていく。こんな時代を背負い、「殲滅之處」の碑銘が刻まれたのである。 (下村佳史が担当します)

 メモ 碑を設計したのは神社仏閣設計の第一人者として知られ、東京帝国大教授だった伊東忠太。碑には、伊東が好んで用いたハートマークのような模様が刻まれる。「猪目」と呼ばれ、魔除けの意味がある。「敵国退散」の願いが込められているのだろうか。

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