第1次大戦 独兵捕虜を使役し工事 元寇碑と平和(中)

西日本新聞 ふくおか都市圏版 下村 佳史

今津は「殲滅」の地か

 福岡市西区今津の博多湾が望める高台に、元寇(げんこう)の記念碑建立の機運が生まれたのは1913(大正2)年7月、地元で行われた元寇防塁の発掘だった。福岡日日新聞社(西日本新聞社の前身)が講演会と組み合わせて行った催事だった。周辺の松原は、露店が軒を並べ見物客で混み合った。

 在郷軍人や青年たちがスコップで砂浜を掘り下げ、往時の石塁が姿を見せた。九州の考古学創始者の中山平次郎がこの発掘を機に、「石築地(いしついじ)」と古文書に記されてきた石塁を「元寇防塁」と仮に名付け、それが今では定着している。

 68年の本格的な発掘調査に携わった元市教育委文化財部長の柳田純孝さん(79)は「掘り出された元寇防塁を顕彰するとともに、観光に結びつけたいとの思いが地元にあった。観光客が立ち寄る場として碑は建立された」と指摘する。

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 だが、現代の地域おこしのようにはいかなかった。平和な時代ではなかった。建碑のための寄付金募集を締め切った14年に、第1次世界大戦が起きた。この年から太平洋戦争で敗戦するまでの32年の歴史で、日本が海外に派兵しなかった年はわずか2年のみだ。

 日本は、同盟を結んでいた英国から、中国・山東半島を根拠地とするドイツ艦隊の駆逐に向けて助けを求められ、ドイツに宣戦布告した。ドイツ軍は14年11月、日本軍に降伏した。

 碑の基礎工事では、日本軍が捕虜にしたドイツ兵が使役された。15年4月のこと。砂浜近くに石碑を建てるため、ドイツの技術力を頼りにしたのだろう。福岡連隊の司令部に願い出て日本初の捕虜使役となった。

 捕虜を人道的に扱う国際条約は守られたという。80人の捕虜は、市内の収容所から福博電車と、北筑軌道の列車を乗り継いで移動した。当時の新聞によると、車内ではハーモニカを吹いたり、たばこを吸ったりと、喜々とした様子だったという。作業は2日間行われ、住民が福引を催し、捕虜をもてなした。

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 時代は激動する。日本は欧米列強と並ぶ「一等国」と見なされるようになり、膨張主義を突き進んだ。捕虜使役が行われた翌月、日本は中国に対し、二十一カ条の要求を承諾させた。中国では、日本の帝国主義的侵略を排除しようと排日運動が激化した。

 碑はこの年の11月に完工した。その銘には「元寇殲滅之處(せんめつのところ)」。16年の除幕式で、建碑を推進した郷土史家の木下讃太郎はこうあいさつした。「元軍の進むところ、各国ことごとく滅亡の山河を残せるに、独りわが石塁のみがこれを殲滅し得た。(中略)今津こそは敵国降伏の実現地にあらずや」

 この年、ジャーナリスト徳富蘇峰が国民新聞の連載で亜細亜モンロー主義を説いた。その趣旨は、欧米に依存しないで、日本がリーダーとなってアジアと共存することだ。木下のあいさつと重なるところがある。

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