「国難」意識 村民挙げて擁護の大会 元寇碑と平和(下)

西日本新聞 ふくおか都市圏版 下村 佳史

今津は「殲滅」の地か

 大正初期に建立された福岡市西区今津の「元寇殲滅之處(げんこうせんめつのところ)」碑を巡る郷土史家2人の論争は、議論がかみ合わないまま続いた。

 感情的なやりとりもあった。建碑推進役の木下讃太郎は、暴風雨で元軍の艦隊が沈んだのは海上であり「碑は海には建てられないから海が展望でき、史跡の残る場所を選んだ」と主張。

 一方、これに反論する武谷水城(たけやみずき)は「(日本海海戦で壊滅的打撃を受けた)バルチック艦隊殲滅之處と刻んだ碑を鐘ノ岬(宗像市)背後の山頂に建てるのと同じ」と応酬した。

 論争は、碑建立から20年後の1936(昭和11)年に再燃した。

 8月17日付の九州日報(西日本新聞の前身)によると、武谷は県知事宛てに碑銘改訂の申請書を提出。これに対し、当時の今津村の村民700人が碑の擁護大会を開く事態になり、同紙は「地元民憤然 反対に蹶起(けっき)」の見出しで報じた。

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 擁護大会の決議には「実在する当時の史跡とわれら祖先の偉勲をしのび、併せて国民風教(徳による教化)の資に供せん」とある。防塁に誇りを抱かせる趣旨が建碑にあるというものだが、「国難」意識を盛り上げるために蒙古襲来を取り上げる時代になっていた。

 擁護大会の5年前の31(昭和6)年3月に元寇防塁が国史跡に指定され、7月に「弘安役六百五十年記念会」の祭典が東京で開かれると、9月には満州事変が起きた。これらが有機的につながった。

 記念会は趣意書で「国民よく祖先が元寇を絶滅したるがごとき大功を立つることを得べきや否や」と訴えかけた。「国民の精神を作興する」ために、満州問題と蒙古襲来が重ねて見られるようになったのである。

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 建碑の原点は、東公園(博多区)の亀山上皇立像の建設運動にある。

 運動のきっかけは1886(明治19)年、清国・北洋艦隊の乗組員が長崎で起こした暴行事件。調査に派遣された福岡警察署長の湯地丈雄(ゆじたけお)は清国との国力の差を痛感した。退官して全国を行脚して建設資金を集め、元寇の際に敵国降伏を折願した故事がある上皇の立像を1904(明治37)年に完成させた。

 当初の訴えは自衛のための国家主義で、侵略的な国家主義とは異なったとされる。だが、日本が日清、日露戦争の勝利を経て、東アジアに勢力を拡大する中、神国思想は高揚していく。人々は元寇のとき、神徳の発揚で起きたという「神風」を信じた。だが、太平洋戦争では吹かなかった。

 碑の修復に向け、地元有志が組織を立ち上げ、近く募金活動を始める。中心メンバーの古藤英俊さん(73)は「なぜ『殲滅』の銘が刻まれたのか、時代背景をしっかりと受け止め、平和を見つめ直していきたい」と話す。 (下村佳史が担当しました)

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