「一隅を照らす」原点胸に 模索続ける元現地ワーカー

 中村哲を継ぐ 銃撃事件1年(下)

 「ママ、この本がいい」。男の子が本棚の本を母親に手渡すと、2人はベンチに座って読み始めた。京都市の絵本店「きんだあらんど」。経営者の蓮岡修さん(47)は、その光景に目を細めた。戦乱の地から活動の場を移して12年がたつ。

 2000年にアフガニスタンを襲った大干ばつ。「もはや医療どころではない」と白衣を脱ぎ、井戸を掘り始めた故中村哲医師を現地ワーカーの責任者として支えた。「手段を選ばずに目的を果たせ」。中村さんの要求に応えて労働者の採用や村々との交渉まで担い、800以上の井戸を掘った。

 非情な現実を何度も目にした。幼子が渇きを癒やそうと泥水をすすり、次々に命を落としていった。01年には米軍などによる空爆も始まった。平和とは何か、考え続けた。「最小単位の平和は、親子が心を通わす時間ではないか」。07年に帰国し、その翌年に知人から絵本店の経営を引き継いだ。

 中村さんを失った今、アフガンを再訪し、現地を支えたいとも思う。いつかその日が来るまで、日本で小さな平和を守り続けるつもりだ。

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 鹿児島県徳之島町の小林晃医師(57)は医学生の頃、パキスタンで医療活動に携わる中村さんを訪ねた。「困った人を助ける天才だ」とほれ込んだ。日本で医師となり、一年の大半を現地で活動することを許してくれる離島の病院に就職した。1997年から4年間のほとんどをパキスタンで過ごし、共に働いた。

 医療過疎に悩む地域の役に立とうと、今も島に残る。「人が行かないところへ行け」。中村さんに教えられた。

 今年1月、仕事の傍ら、中村さんを伝える講演活動を始めた。訃報を聞いてすべての著作を何度も読み返した。師の実践や平和への思いを語り継ぐのは関わった人間の役目だと決意した。

 中村さんと現地で働いた多くの日本人ワーカーたち。今は任期を終え、それぞれの暮らしを続けている。小林さんはふとした時、中村さんが繰り返していた言葉をかみしめる。「一隅を照らす」。今いる場所で、できることを尽くすという意味だ。

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 11月、大阪府交野(かたの)市の民家。「認知症もあって、うまく話せなくなった」。がんを患う高齢の母親を心配する男性に、元ワーカーの大越猛医師(45)は語り掛けた。「悩みからも解放されますね」。母親のベッドの周りが和んだ。

 大学院で国際法を学んだ後、アフガンに渡った目的は「キャリアアップ」。国連に就職し、難民を救うのが夢だった。眼前の人助けのみを見据えて重機まで操る医師の姿を間近に見て、自分の頭にあった「支援」の浅さに気付いた。「同じ土俵に立ちたい」と思いつめ、1年で帰国して医学部に入学した。35歳で医師国家試験に通った。

 2年前、大阪府枚方(ひらかた)市に24時間体制で訪問診療に取り組むクリニックを構えた。担当する患者の8割は末期がん。最期の日々を自宅で家族と過ごす患者は、病院では見せない穏やかな表情になる。だから、新型コロナウイルスの影響で入院を避ける患者が増え、多忙を極めても依頼は断らない。患者が話しやすいようにと、白衣は着ない。

 最近、中村さんを長年支援してきた知人に言われた。「中村イズムを継いでいますね」。今はこの住宅街が自分の一隅だ。 (井崎圭)

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