託された中村医師の「勇敢な生涯」 信念は一人一人の心に

西日本新聞 社会面 中原 興平

中村哲を継ぐ 銃撃事件1年(取材ノート)

 素っ気ない言葉を今も忘れない。「勉強してこなかったんですか」。6年前、用水路を掘る故中村哲医師を訪ねたアフガニスタン。取材初日、取水設備について簡単な質問をすると、中村さんはそう答えた。国内で見せる優しげな表情との違いに戸惑った。

 目の前には大河クナール川が悠々と流れていた。ここまで来ているのに、そんなわけがない。失礼にも、うかつな質問と浅学の身を棚に上げてそう思った。付け焼き刃であっても1カ月は準備に専念し、著書や報告書、関連書籍も読み込んだつもりだった。その夜に宿舎で自分なりに描いた現場周辺の見取り図らしきものを見せながら、翌朝、同じ質問をした。「新聞記者らしくなってきましたね」と、中村さんはうなずいた。

 その後、現地で密着した2週間、幾晩も時間をとってどんな質問にも答えてくれた。事業を伝えていくために「現場の証人、目撃者をつくっておきたいんです」。帰国後も亡くなる約10日前まで、何度取材に応じてもらったか分からない。

   ◇   ◇

 「先生、おはようございます」。1日、福岡市のマンションの一室にある「ペシャワール会」の事務局。ボランティアの女性が中村さんの遺影に一礼して作業を始めた。中村さんと共に活動してきた会では以前と変わらず、会報の発送や関連イベントの手伝いなど地道な仕事が続いている。

 支援の輪は広がる。福岡県飯塚市の会社役員の女性(51)は2月から、ボランティアとして会を手伝うようになった。訃報直後、中村さんへの敬意を語る友人もいた。「普段は話題に上らなくても、実は大勢に共感が広がっていると思った」と言う。

 昨年度に全国から集まった浄財の額は、米軍などによるアフガン空爆で現地が注目された2001年度に次いで過去2番目に多かった。学校や図書館などさまざまな場所で功績を伝える試みも相次ぐ。生前に面識があろうと、なかろうと、事業を支持する多くの人たちが自分なりの役割を見つけ、行動を起こしている。

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 中村さんが残したのは、戦乱の地に築いた用水路や診療所だけではない。連載で取り上げた会のスタッフや元ワーカーの話には、共通点があった。「どうせ、せないかんことは決まっとる」「目の前のことをただやりなさい」「一隅を照らす」。彼らが今も心の支えとする中村さんの言葉は言い回しが違うだけで、趣旨は同じだ。

 03年に造り始めた用水路の終点となったガンベリ砂漠では、気温50度の熱暑の中で植樹が続けられた。中村さんが詠んだ詩にはこうある。「何があってもただ水やり」。褒められてもくさされても、誰が去っても倒れても、邪魔されても協力されても。誰が何と言おうと「ただ水やり」。

 アフガン大統領が「最も勇敢な男」とたたえ、亡き後も人々を勇気づける中村さん。座右の書とした「後世への最大遺物」で内村鑑三は、後に続く人たちのために残すべき最も大きな遺産を「勇ましい生涯」と述べた。まさにその通りの生き方だったことを、信念を継ごうとする人たちの姿が証明している。

(中原興平)

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