中村八大編<489>太陽と土と水を

 中村八大の音楽史を大枠で区分すれば1950年代はジャズピアニスト、60年代は「上を向いて歩こう」などポピュラーの作曲家として最前線を走り続けた。70年代に入り、40歳になった。中村は自著「ぼく達はこの星で出会った」(1992年刊)の中で、40歳までを次のように振り返っている。 

 「それまでの人生は、ジャズ・ピアニストとして稼ぎまくり、売れっ子作曲家で名声をほしいままにし、日本のポピュラー音楽界を、一人で背負っているつもりの、高慢な音楽家だった」 

 70年代以降も音楽活動は続くが、糖尿病など病気との闘いでもあった。親交の深かった作詞家の永六輔とタレントの黒柳徹子は対談の中で触れている。 

 永 八大さんの歌で言うと、たくさんいい歌がある(略)最後は一九七〇年の万博の「世界の国からこんにちは」なんだよね。(略)あの辺から、曲をつくるのがつらくなってくる。 

 黒柳 あのころからつくる数が少なくなってくるみたいね。糖尿が始まってたわけですか。 

   ×   × 

 発病後の71年の作品に「太陽と土と水をこの手にもとう」がある。合歓ポピュラーフェスティバルへの参加作で、特別賞を受賞した。 

 <人様は お金があれば幸せをつかまえられると やってみた お金は消え失せた お金は知恵に負けた(略)知恵はただひとつ 太陽と土と水をこの手でさがそう> 

 高度成長期の拝金、物質主義的な社会に対して、太陽や土や水といった自然との調和の必要性を訴えている。この歌は中村が作詞作曲しているだけでなく、自ら歌った唯一の曲だ。 

 「私は生来、これほど音楽が好きなのに、自分から歌いたいと思ったことは一度もなく、人前で歌いたがる人の気が知れない(略)やたらにへただということもあるんだが…」 

 作詞作曲、さらに歌をも担った一つには自分の世界観を丸ごとで伝えたい、という強い思いがあっただろう。また、地元の子どもたちとの合唱も「みんなが一緒に歌える歌をつくりたい」という考えを実現したものでもある。その意味では中村の世界にアプローチする上で外せない転換期の作品であり、そのテーマ、メッセージは現在ではさらに重要度を増している。

 =敬称略

  (田代俊一郎)

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