水俣病救済の道開いた2人 運動リーダーの死去相次ぐ

 水俣病被害の補償を求め続けた不知火海沿岸出身のリーダーが、相次ぎ鬼籍に入った。会員4千人を擁した被害者団体「水俣病出水の会」会長の尾上利夫さん=享年82。国、熊本県、原因企業チッソの責任を明確にした「水俣病関西訴訟」元原告団長の川上敏行さん=享年96。2人はそれぞれ「交渉」と「訴訟」という異なる手法で道を開いた。

 「尾上さんは本当に尽力なさった。お世話になった人は多いですよ」。11月26日、鹿児島県出水市のJR駅から葬儀場へ向かうタクシーで、地元の運転手はこうたたえた。

 小学校を卒業し、海に出た。昼飯はしちりんで焼いたボラ。「海水に浸してかぶりつくのが一番うまかった」。手こぎの舟で鍛えた体で会をけん引しているようにも見えたが、読みは緻密。その原動力は悔恨だった。

 「ぶりやられた」(出水地域の方言で、放り投げられた)。国が水俣病問題の解決を図った1995年の「政治決着」。当時会員400人だった出水の会は、解決策に応じた一人一人にチッソから支払われる一時金260万円とは別に、団体の規模に応じて上乗せされる特別枠の加算金対象から漏れた。

 これをきっかけに「これでもか、これでもか」と会員の掘り起こしを進め、4千人の大台に。幹部らで上京して政府や主要政党に直訴を繰り返した。「無視できない規模」(政府関係者)となった会の意向を伺おうと、官僚たちが霞が関から出水に何度も足を運んだ。

 「国を動かすには数でいかないかん」。その言葉が実現する。2009年に「第2の政治決着」とされる水俣病被害者救済法が成立。ここで出水の会が手にした団体加算金総額は29億5千万円。数の力で交渉を有利に進めた成果だ。その一部で完成させた温泉や認定患者向けの介護施設は今、親族が運営に携わる。葬儀では熊本県知事や環境省担当部長の弔電も披露された。

   ◆    ◆ 

 川上さんは関西に移住後、1984年に大阪地裁に提訴した。不知火海沿岸でも訴えが相次いだ時期。事態の収拾を図るための「最初の政治決着」には、正式に患者と認めないやり方は間違いだ、と応じなかった。

 訴訟を続け、国と熊本県が被害を拡大させたとする判決を勝ち取り、2004年に最高裁で確定。受け取った慰謝料は800万円。判決は、尾上さんらの交渉を後押しする役割も果たした。

 一徹に訴訟を貫いた川上さん。あらゆるものを受容し、「実」を追求した尾上さん。理と情、とでも表現しようか。公式確認から64年が経過した水俣病。2人の運動が相まって、この時期の被害救済を前進させたと言える。

 (重川英介、村田直隆)

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