ふわふわ生きて「ムーミンになりたい」58歳 プランナー中村修治

シン・フクオカ人(13)

 流れに身を任せてみるのも、悪くないものだ。

 中村修治(58)は、福岡で最も企画書を書いた「伝説のプランナー」と呼ばれる。

 広告や商品開発など、1日に3本の打ち合わせをこなしながら、年間200本の企画書を書く-。30代からそんな“急流”に乗った生活を10年以上送った。

 「そのせいか、1日2、3時間しか眠れなくなってしまった」

 1994年に福岡では初の企画会社「ペーパーカンパニー」を設立。2006年にはPR会社「キナックスホールディング」を立ち上げた。ちなみに「キナックス」は「きな臭さマックス」の意味。プランナーらしく、社名にもしゃれを効かせている。

 フェイスブックでは約1万人とつながる。人々を引き付けているのは、毎日2本投稿する「遺言」だ。

 〈生ぬるい自分を追い込んだら何かが見える、と考えているバカは多い。滝行に行ったって「すげぇ冷たかった!」くらいの思い出しか残らない。結局、なーんも変わらない。たった数時間の滝行体験で人生が変わるなら、みーんな幸せになっとるわ〉

 生き方から政治、ED(勃起不全)まで、社会のあらゆることに突っ込みを入れる。4年前に投稿を始めて、既に3千本を超えた。「いいね」は累計100万に及ぶ。

流れに任せて舞台で裸になったこともあった=2016年

    ◆    ◆

 高校まで過ごした滋賀県彦根市では、大江健三郎を読んで純文学の小説家を目指した。が、全く書けない。次に村上春樹を読んだ。立命館大(京都市)に進学後も「これなら俺にも書ける」と頭をひねったが、やはり一本も書けなかった。

 居酒屋でアルバイトしながら大学5年になった時、「これでスーツを買いなさい」と5万円くれた祖母が他界した。やむなく印刷会社に就職した。東京本社の社長室付となる大出世を遂げたものの、上司への直言が過ぎて干されてしまう。

 しかし、仕事ぶりを評価していた副社長の命で1989年、福岡に新設された子会社に出向。社員2人で初年度に売上2億円を達成するなど、快進撃が始まった。主な仕事は広告代理店と組んで、クライアント向けの企画書を書くことだった。

 カラーのイラストや写真を使ってパソコンで作る企画書は、当時はまだ珍しかった。印刷会社でノウハウを学んでいた中村には、面白いように依頼が舞い込んだ。

 「代理店の担当者が考える企画を、分かりやすく絵にしてみせただけなんですけどね」

 一晩の仕事で3万~5万円。そのうち、代理店から「クライアントに説明してほしい」とプレゼンへの同席を求められた。すると、説得力のある話術が評判を呼び、単価は10万円に跳ね上がった。

 そうするうちに今度は、クライアントの社長と会う機会が増えた。誰よりも企画書の数をこなし、アイデアを蓄えていた中村は、社長たちの心をつかむ。今では、そうした会社の顧問を務めている。

中村修治さんのオフィスには、関わってきた仕事に関する物が雑然と飾られている

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 朝の数時間はネットサーフィン。パソコンやスマホで情報収集し、ネタをためる。それを自分なりの言葉に置き換え、フェイスブックに書き込む。

 フォロワーになってくれた若者たちを集めて「オフ会」を開いたり、若い写真家と一緒にブログを書いたり、意外に忙しい。

 小説家を志した大学生の頃、よく鈍行列車で一人旅に出た。ストイックになれば何か書けるのではないかと思ったからだ。

 「でも、自分の中に何もないことに気づいた」

 ネットの情報や人々に接する機会を増やしてきたのは、その「空白」を埋めるためかもしれない。

 だけど、世間で言う定年まで、あと2年。人生の流れも緩やかになるだろう。

 「このまま、ふわふわ生きてムーミンみたいになりたい」

 ネットが発達したおかげで、全国の津々浦々を巡って物を書き、そこから発信もできる。妖精みたいなムーミンなら、責任もないし、愛される。そんな生き方があってもいいじゃないか。最近、「遺言」にこう書いた。

 〈のらりくらりと生きてきた。部活も勉強も、灰になるほどは、頑張ってはいない。仕事をはじめても、独立起業をしたところで、灰になるほどには、打ち込んでもいない。

 58歳で、さらに、モラトリアム(笑)

 どうしろと言うのだ!

 どうしようもねぇな!

 ただ暖まりにだけは来てほしい。灰になるほどには、燃えたりできねぇけどな〉

 =文中敬称略(加茂川雅仁)

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