小松政夫さん死去 原点の博多常に思い…のぼせもん喜劇貫徹

 【評伝】「どんたくがのうなったとは、ほんなごと(本当のこと)ですか」。新型コロナウイルス感染が拡大した今年3月、電話の声は小松政夫さんだった。博多どんたくの中止を伝えると、意気消沈した様子で「コロナですな。こっちも、ドラマのロケができんとですよ」。

 博多祇園山笠がなかった7月にも電話があった。「寂しかでっしょう。皆さん、どげんしよらっしゃあ(しておられる)ですか」。毎年、山笠の季節に故郷に滞在し、中洲流(ながれ)の法被を着る「山のぼせ」だった。

 昨年の集団山見せでは福博の知名士として台上がりを務めた。「博多っ子の最高の名誉」と感激し、中洲流の全ての町をお礼に回った。山笠の若手の仲間入りした高校生が直会(なおらい)で「おやじに恥をかかせんごと頑張ります」とあいさつすると「今どき、こげな若者がおりますか」と涙ぐんだ。

 中洲では、すれ違う酔客から「(小松の)親分さん、帰ってきたと」と声を掛けられ、気軽にサインに応じていた。その足で向かった酒場で「親分ばしよったとは50年余りの芸能生活で2年だけ。ばってん、今でも呼ばれるとです」とうれしげな顔で話してくれた。

 今春には博多弁で書いたエッセー集「みーんな ほんなごと!」を出版。届いた愛読者カードの購入先に、博多の老舗書店の名前を見つけて「あたしも買いよりました。懐かしかぁ」と声を弾ませていた。

 東京で活躍していても、生まれ育った博多への郷土愛が心に満ちていた。「博多のよか話ば知らせてほしい」と頼まれて時折、福岡都市圏版の記事を送っていた。必ず、お礼の電話が届いた。一世を風靡(ふうび)した軽佻(けいちょう)なギャグとは裏腹に、律義で礼儀正しい人だった。

 9月半ばの電話で、亡くなった師匠の植木等さんや親友のケーシー高峰さんの思い出を話して「コロナが収まったら、博多で会いまっしょう」と言われたのが最後になった。

 初めて小松さんに会ったのは40年余り前の高校生の頃。その時にもらったサイン色紙には「博多っ子の手本となれ」と書いてある。

 (博多まちなか支局・手嶋秀剛)

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