沖縄 不条理への「革命」ステージに立つ歌手 コザ暴動50年

 1970年12月20日未明、米軍統治下の沖縄・コザ市(現沖縄市)で民衆が米軍や米国人の車を焼き払う「コザ暴動」が起きた。米兵や軍属による事件事故が繰り返される中、沖縄側に裁判権がなく不当な扱いを受け続けていたことへの怒りが爆発した。コザ出身で暴動に加わったフォーク歌手、佐渡山豊さん(70)は「戦後続く不条理への抵抗。必然だったウチナーンチュ(沖縄の人)の蜂起で、革命だった」と振り返る。

 暴動前夜、琉球大1年生だった佐渡山さんはコザ市中心部のたまり場で友人と酒を酌み交わしていた。就寝してしばらくすると近くの友人が駆け込んできた。「革命どー。ゆたかー、うきれー(起きろ)」「ピストルバンバンやってる。でーじなとん(大変だ)」

 人だかりを縫い現場に向かった。軍道24号(現国道330号)と米軍嘉手納基地のゲート2に通じる「ゲート通り」で民衆が米軍関係者が乗る「黄ナンバー」の車を止めてひっくり返し、火を放っていた。米兵が起こした飲酒運転事故を目撃した民衆が、運転手や駆け付けた軍警察(MP)を取り囲んだところ、MPが威嚇発砲したことが引き金になったと聞いた。

 この年の9月には、糸満町(現糸満市)で飲酒運転の米兵が主婦をはねて死亡させた。ただ、12月11日に下った判決は無罪。「糸満と同じことが起きるぞ」「ウチナーンチュは人間じゃないのか」。未明のコザに沖縄の叫びが響いた。

 佐渡山さんも一緒になって車3台をひっくり返す。基地内で差別を受けていた黒人の車は襲わず、略奪も起きなかった。「秩序の下で一丸になった」と語る。

 小学生のころ、学校にヘリコプターでやってきたサンタクロース姿の米兵からチョコレートやガムをもらった。「うれしーさね。良き隣人だった」。中学に入ると、頻発する米軍関係者による凶悪事件や事故が耳に入るようになる。加害者が正当に裁かれないという不条理も理解できるようになった。「基地と金網一枚隔てるだけで、こんなにも差別されるのか」

 72年の本土復帰後、大学を休学して上京し本格的に歌手デビューを果たす。74年にコザ暴動を歌った「焼き打ち通りのバラード」を発表したが、歌詞が過激だとして放送禁止になった。

 78年に沖縄に戻り活動を休止する。1級建築士の資格を取り「金網の中から沖縄と米軍を見たい」と軍雇用員として働いた。憎むべきは米兵ではなく、日米の協定書一枚で差別を生むシステムだと痛感した。

 米兵による少女暴行事件が95年に発生し、抗議の総決起大会に参加。その後、方言で歌った代表曲「ドゥチュイムニィ」(独り言)が泡盛のCMに採用されたことで活動を再開した。米軍基地は今なお沖縄に集中し、日米地位協定も変わらない。「不条理に慣れてはいけない」と歌に込める。

 佐渡山さんは19日、焼き打ち現場にあるライブハウスでステージに立った。

 <誰だってこのカナアミからは解放されてもいい筈(はず)だ だから僕のこの生命までは君にゃ奪えない筈>

 焼き打ち通りのバラードの歌詞は、暴動から50年がたった沖縄にも通ずる。 (那覇駐在・高田佳典)

【ワードBOX】コザ暴動

 沖縄が米軍統治下だった1970年12月20日未明、米軍嘉手納基地に隣接するコザ市(現沖縄市)の繁華街周辺で、飲酒運転の米兵が起こした人身事故をきっかけに発生。民衆が事故処理に訪れた米軍警察や軍関係者の車両をひっくり返し、放火した。一部は、嘉手納基地に侵入して学校にも火を付けた。当時の琉球警察も出動し、米軍が催涙弾を使用して朝には静まった。米公文書などによると、車80台以上が焼け、米側、沖縄側の負傷者は80人を超えた。死者はいなかった。

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