イタリアの医療崩壊から学ぶ 効率性の危うさ、日常の「耕し」が鍵

 激動の1年が暮れようとしている。去年の今頃、やがて世界中がパンデミックに翻弄(ほんろう)されるなど誰が予想できただろうか。世界は不確実だ。あたりまえに感じていた日常のほうが例外なのだとあらためて思い知らされる1年だった。

 感染症の蔓延(まんえん)という危機のなかで、日本の文化人類学者たちもさまざまな発信をしている。なかでも、イタリアの精神医療を研究してきた松嶋健の「イタリアにおける医療崩壊と精神保健 コロナ危機が明らかにしたもの」(『現代思想』8月号所収)は、日本の現状を考えるためにも多くの示唆を与えてくれる。

 ヨーロッパで最初に感染が拡大したイタリアでは、一部の地域で深刻な医療崩壊が起きた。松嶋は、それが一大産業集積地であるロンバルディア州だったと指摘する。原則無料の公的医療が提供されるイタリアで、同州はいち早く先進的な保健医療システムを導入したことで知られる。それは公的医療に民間企業の経営手法を導入し、州ごとに保健医療の目的や報酬を決められる制度改革だった。結果、同州では民間病院が半数を超え、神経外科や心臓外科といった収益率の高い高度医療の拠点が次々と整備された。

 「稼げる医療」の優先で、地域医療や家庭医といった公的医療を支える地域ネットワークがないがしろにされた。家庭医との連携のない感染者は直接病院に行くしかない。そして病院で感染が広がる。当初、民間病院は感染者の受け入れを拒み、病床を提供したのは事態が悪化したあとだった。民営化された高齢者施設では州からの支援もなく独自の対応を迫られた。さらに病院の病床を空けるために症状の軽い高齢患者の受け入れを要請され、多数の高齢者が施設で亡くなる。緊縮財政で保健医療費が大幅に削減されるなかでも、地域の保健サービスが機能している州では持ちこたえていた。松嶋は、「独自の新自由主義的な政策によって地域保健を空洞化させていたことが(医療崩壊の)大きな要因であった」と分析する。

 イタリア全土でロックダウンが開始された3月11日、ロンバルディア州の経団連は、生産活動を止めれば海外市場を失うと声明を出し、政府も生産活動休止令の適用除外を一部の産業に認めた。同州では経済を動かすために、多くの企業が操業を続けた。経済か、人命か、イタリアでもそのジレンマにさらされた。

 医療現場では、限りある人工呼吸器を誰が使うべきかという究極の選択を迫られる事態になった。松嶋は、この人命か経済か、どの命を優先すべきか、といった二者択一の手前で何がなされ、何がなされなかったかが重要だという。経済合理性の名のもとに保健医療サービスが民営化され、医療資源や人員が削減された。それが現場の医療者に究極の選択を強いる結果になった。日本でも政治家が緊急事態に苦渋の決断を下す姿が注目を集める。しかし、そうした事態に追い込まれないようにするのが本来の政治の役割だ。

 松嶋は、1978年のバザーリア法で精神病院を全廃したイタリアの精神保健改革にヒントを見いだす。それは緊急性の論理をどう抜けだすかという視点だ。精神病院への入院は緊急性の論理(自殺や危害を加える危険性など)から正当化されてきた。そこで精神病院をなくし、精神保健センターを中心に地域で利用者の生活を支える仕組みに転換した。

 イタリアの地域保健では「緊急性」の論理にかえて、「ゆとり」を意味する<agio>が目指されている。病状が進行してからでは医学的に対応せざるをえない。なので常日頃から関係性や場を豊かに「耕しておくこと」に重点がおかれる。一刻を争う決断の手前で、いかに時間をかけて地域のなかで相互的な人間関係や場を築いておけるか。松嶋は、それが多様な意見に耳を傾け、じっくりと交渉し妥協点をみいだす民主制そのものだと指摘する。追い込まれた末の「決断」など政治ですらない。

 行政の効率化やコスト削減が改革だとされる。だがムダを排除した効率性にもとづくシステムはいざというときに脆(もろ)い。日本でもそのことを痛感させられている。危機に対処する鍵は、絶え間ない地道な日々の積み重ねのなかにあるのだ。

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 ◆松村圭一郎(まつむら・けいいちろう) 1975年、熊本市生まれ。岡山大准教授(文化人類学)。京都大大学院博士課程修了。エチオピアでフィールドワークを続け、富の所有と分配などを研究。「うしろめたさの人類学」で毎日出版文化賞特別賞。近著に「これからの大学」「はみだしの人類学」。

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