利己的な「勝ち組」に嫌悪感? あるべき姿は炭治郎の倫理か

西日本新聞 文化面

「鬼滅の刃」ブーム

 「鬼滅(きめつ)の刃(やいば)」ブームが続いている。2019年のテレビアニメ化がきっかけとなって大ブレークし、今年公開の映画「鬼滅の刃 無限列車編」の興行収入は歴代一位に迫っている。

 話の舞台は大正時代。主人公・炭治郎(たんじろう)はある日、家族を鬼に殺され、妹の禰豆子も鬼にされてしまう。彼は妹を人間に戻し、鬼を討つために「鬼殺隊(きさつたい)」へ入隊する。そして、修行を積み、鬼との対決に挑む。物語のトーンは陰鬱(いんうつ)とし、残酷なシーンも多い。しかし、大人だけでなく子どもたちにも人気があり、一種の社会現象となっている。なぜ「鬼滅の刃」は大ヒットするのか。

 多くの論者は、コロナ禍の現状をその背景として論じている。世界中でクラスターが発生し、医療崩壊が起こる。現実は厳しく、先の見通しもなかなか立たない。そんな中、よりひどい状況を見ることで、自分たちはまだましだと思い、慰めを得ているというのである。

 しかし、社会学者の宮台真司は異なる見方を提示する。彼はインターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム」の番組(「5金スペシャル映画特集・『鬼滅の刃』が突きつける人間の本来あるべき姿とは」10月31日)で、この作品を社会批判として読み解く。

 宮台の見るところ、鬼は現代の人間そのものである。人は勝ち組になろうとして、平気で他人を蹴落とす。自分の利益を追求する利己的存在になっている。現代は、鬼が多数派を占める時代である。

 一方、鬼殺隊の炭治郎は、仲間を守るためだけに力を使う利他的な存在である。彼は必死で修行を繰り返す。しかし、従来の漫画のように一気には強くならない。弱さを抱えながら、ゆっくりと強くなっていく。

 宮台は、炭治郎の行為の中に、損得勘定の否定を見いだす。鬼に勝つことができるかどうかはわからない。負けてしまい、滅びるかもしれない。しかし、炭治郎は結果を先回りしない。ただ仲間を守りたいという一心で戦いつづける。

 ここに示されているのは「条件プログラムの否定」である。人は往々にして、行為に「条件プログラム」を設定する。「いま助けてあげたら、のちにお返しをして貰(もら)えるだろう。だから助けよう」といったように、打算が働く。これは「あさましく、さもしい」。「鬼滅の刃」がヒットするのは、鬼のようになった現代人への嫌悪感が広がっているからにほかならない。宮台は、炭治郎のような人間本来の倫理や内発性を希求する動きを、物語から読み取ろうとする。

 批評家の杉田俊介は、連載「『鬼滅の刃』を読む」(インターネットサイトimidas10月29日、11月24日)の中で、鬼の「悲しみ」に注目する。鬼は人間だった頃の一番大事な人たちの記憶さえ忘れている。存在は虚(むな)しく、悲しい。

 炭治郎は、通称「手鬼」を倒す。手鬼は、大好きだった兄を、鬼になった自分が咬(か)み殺したことを覚えていない。しかし、炭治郎に倒され、死の間際に手を重ねたとき、兄の手のぬくもりを思い出す。「自分の最大の罪を思い出すことが鬼の救済になっていく、という悲しい逆説」が示される。

 炭治郎は、鬼を容赦なく倒す。しかし、「踏みつけ」にはしない。鬼であることに苦しみ、自らの行いを悔いる者を足蹴(あしげ)にしない。最後まで、鬼の命の尊厳を守ろうとする。杉田は、「このぎりぎりの感覚が重要」と述べる。そして、そこに「倫理観の根拠」を求める。

 私たちは、精いっぱいの日常を生きている。しかし、なかなか思うようにはいかず、ストレスがたまる。営業成績を上げることを日々求められ、激しい競争に晒(さら)される。コロナ危機の中、今年5、6月のDVの相談件数は前年同月の1・6倍に増加したという(東京新聞10月9日)。私たちは、いつでも鬼になりかねない存在だ。

 一方、鬼と見なした相手に対して、攻撃的な言葉を投げかけ、絶望の淵に追い込む状況も見受けられる。そこには「いのち」に対する尊厳が見られない。倫理が働かず、言葉がエスカレートする。

 「鬼滅の刃」に熱狂する現代人は、そこに何を見ようとしているのか。利他的行為の本質を考えたいと、強く思った。

 (中島岳志 なかじま・たけし=東京工業大教授)

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