ジャズ編<492>パラゴンの夢

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 九州中央部の山里、大分県竹田市荻町にミニトマトの栽培農家がある。猪野精一郎(53)と美智子(46)夫妻が営んでいる。猪野が10年前に脱サラして始めた。美智子の実家はミニトマト農家で、猪野は美智子をこの道では「師匠」と呼んでいる。

 この農家にはもう一つの顔がある。小さな看板が掛かる。「音と珈琲 一粒万倍(いちりゅうまんばい)」。自宅のリビングに手を入れて昨年10月にオープンした。

 音響のスピーカーはミニではなく、320キロの重さを持つパラゴンだ。パラゴンは米国JBL社の大型スピーカーの名機である。1958年に販売され、83年に生産が終了、約千台が製造された。この店を仕切っている美智子は「実はパラゴンという名前を知りませんでした」と言った。

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 福岡県朝倉市のジャズ喫茶「古処」が51年間の歴史を閉じたのは18年末だ。パラゴンはここにあった。美智子はその年の9月に、親類の人に誘われてこの店に入った。それまでジャズ喫茶に身を置いたことはなかった。数回、通ううちに高齢のマスター夫婦が「店をやらないか。あなたならやれる」と指名された。パラゴンを、ジャズの灯を託された。

 1カ月間、悩んだ。「いつか喫茶店をやりたい」といった漠然とした思いはあった。音楽好きでもあった。ただ、音響やジャズには素人だった。不安を超えてバトンを受けたのは向日的な性格や、音楽にかける「古処」のマスター夫妻の一途な生き方への共感だった。もちろん、自分の人生への新品種の作付けでもある。

 美智子は「まだ、プレオープンと思っています。研修中です」と言う。レコードでジャズを聴く空間-ジャズ喫茶は日本独特の文化だ。その文化を守りながら新しい時代にどのように同調させていくか、模索している。

 アンプとのつなぎ方もわからなかった。現在では「気温や湿度によって微妙に音が違う」と感じるようになった。「古処」のマスターも店に足を運び、パラゴンの音を正座して聴きながら「うちの時よりよく鳴っている」と語った。県外からの来訪客も増えている。

 店名の「一粒万倍」は暦の中の特別な日で、一粒のもみが万倍にも実る稲穂になるという意味だ。ミニトマトの栽培のように、パラゴンを苗床にしてジャズの灯、音楽の灯を「万倍」の果実へ。パラゴンの夢は新しい世代、新しい土地で引き継がれている。 (敬称略)

 (田代俊一郎)

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