「傷がひどい…毎日死んでいく」被爆1カ月後の父の手紙、原子野の惨状生々しく

西日本新聞 長崎・佐世保版 野田 範子

 「23歳の父があの原子野にいたと実感が湧いた。大変だった時の父に会えた気がした」。長崎県五島市紺屋町の的野元昭さん(61)は、父の圭志さん=2014年に91歳で死去=が長崎原爆の投下1カ月後に親友に送った「手紙」を読んでそう思った。圭志さんは当時、長崎大経済学部の前身で、爆心地から約2・9キロの長崎市片淵町にあった長崎経済専門学校(経専)の学生だった。原爆投下の瞬間や学校に負傷者が次々と運ばれる様子、友人や教師の安否が生々しい言葉でつづられていた。

 元昭さんが「手紙」を見つけたのは2、3年前。圭志さんの部屋を整理しようと机の上を見ると、重ねられた書類と一緒に手紙のコピーが2枚あった。生前、圭志さんが「大親友」と語り、原爆投下時は遠方にいた友人に宛てたもの。その後、コピーを入手したようだ。

 圭志さんは生前、原爆についてほとんど話さなかったという。原爆投下の様子も、元昭さんは「授業中に突然ぐらっときて、万年筆のインクが散った」とだけ聞いていた。「長崎は観光の町だから、暗い話はもうしなくてもよい」とも話していた。

 そんな父が書いた原爆投下直後の様子。「生きていたらもっと話を聞きたかった。でも、悲惨すぎて思い出したくなかったのでは」と元昭さんは思う。

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 圭志さんは1922年、現在の五島市栄町に生まれた。旧制五島中から旧制第三神戸中に転校後、42年に長崎高等商業学校(高商、44年より経専に改称)に入学している。

 手紙は、戦後の45年9月11日に書かれた。家族が広島から田舎に疎開したと思われる友人を気遣う言葉から始まり、原爆投下の日の描写が続く。

 閃光(せんこう)や激震の後の教室の惨状や、山の向こうから立ち上る煙。爆心地に近い三菱長崎兵器製作所への勤労動員などで負傷したり亡くなったりした教師や学生たち。その後、校舎には次々と被爆者が運ばれて来る。

 「その傷のひどい事。とてもみておられない。そして毎日死んでいく」

 「長崎駅以北、全くの焼野ケ原。大橋、城山、医大付近、いびの口付近、竹の久保にいた人で生きている人は殆(ほとん)どない。傷一つうけていなくて皆死んでいく」(圭志さんの手紙より)

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 長崎原爆戦災誌によると、長崎連隊区司令部もあった片淵町は原爆による焼失を免れた。経専の被害も屋根やガラスの破損にとどまったが、終戦翌日の8月16日に被爆者の救護所として仮編成された第二一六兵站病院が開設されている。

 圭志さんは原爆投下1カ月後の9月末に経専を卒業。その後、会社に勤めるも、昔から患っていた胸膜炎が再発し退職。五島市にある父の文具店を継ぎ、五島文化協会会長や、五島の戦前から戦後を写した写真集の監修もした。被爆者健康手帳を申請したが、認定されていない。

 原爆について口を閉ざしていた父はなぜ、手紙のコピーを机の上の遺品にしのばせていたのか-。

 元昭さんは「記憶が新しい中で、気持ちや様子を鮮明に記している。こういう経験をした人が実際にいたと知ってほしい」と語った。 (野田範子)

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