朽ち果て、インスタ映えの「魚雷発射試験場」 保存の道筋見えず

 長崎県川棚町の中心部に近い片島に戦時中、海軍の魚雷発射試験場があった。今も残る建築物の見学に訪れる人がいるため、町は一帯を公園にした。だが建築物は老朽化が激しく、専門家は倒壊の危険性を指摘している。貴重な戦時遺構は次代に引き継げるのだろうか。修復、保存への道筋はまだ見えない。

 海に突き出した桟橋の向こうに立つのは、1918(大正7)年に完成した射場の上屋跡。内部は空洞。波に洗われ、崩れかけている。

 近くの屋根のない建物は空気圧縮ポンプ所だった。下部が石造りで、上部がれんが造り。朽ち果てるままになっているが絵になる。「インスタ映え」を求める若者を引きつけ、人気アーティストのプロモーションビデオや映画の撮影地になったこともある。

 戦時中は佐世保や川棚の海軍工廠(こうしょう)で製造、修理された魚雷の性能試験が行われ、魚雷の速度を確認する観測所、調整場、貯水槽などの跡もある。

 戦後は長く手つかずの状態だったが、町は2015年に片島公園として整備、見学者用の駐車場や遊歩道を設けた。ボランティアの案内も始まり、修学旅行や社会見学で訪れる子どもたちの姿も見られる。集客施設の一面もあるため、町は約3400万円の予算でガイドの拠点施設の建設を計画している。

 一方で、試験場跡の建築物は風化や波の侵食で損壊や崩壊が懸念される。強い勢力の台風が襲来するたびに不安が増す。

 町教育委員会によると、20年4月に視察した専門家は補強や補修の必要性を指摘した。町は景観保護と両立できる保存方法を検討しているという。修繕工事の設計費に国の補助金が出る登録有形文化財を目指しているものの、歴史的価値の裏付けなど登録に必要な資料は整っていない。

 担当者は「針尾送信所などの国重要文化財がある佐世保市の助言を受けながら模索を続ける」と話す。

「伝えていかんば」

 魚雷発射試験場の開設から終戦まで27年。片島ではどのようにして試験が行われていたのか。

 資料によると、扱った魚雷は重量852キロの航空機用から2800キロの水上艦用まで7種類。長さは最長9メートル。動力源は石油、水、空気の自走式だった。

 台車で射場に運ばれた魚雷は、ガイドレールの付いた発射框(きょう)にセットされ、水深3メートルまで沈めた。魚雷の「背」の部分にある発動挺(ちょう)と呼ばれるレバーを倒し、動力機関を始動させると発射する。

 時速は70キロ以上、射程30キロの魚雷もあった。射場から1キロおきに設置したブイの下を通過すると、近くの船で検査官が旗を振り、観測所で速度を計測した。

 魚雷が想定外の方向に走ると、回収者が追いかけなければならない。「現在の価格で1発5千万円の魚雷もあった。見失った魚雷の発見に懸賞金をかけた記録も残っている」と県文化振興課の斉藤義朗学芸員。

 大村湾を航行中の旅客船に当たり、10人以上が漂流する事故もあった。試験中の魚雷は火薬の代わりに計測機器などを詰めていたので、爆発はしなかった。発射試験で合格した魚雷は実戦配備に向け、船で海軍佐世保鎮守府に送られたという。

 14歳の頃から川棚工廠の工員養成所で働いた波佐見町の田崎学さん(90)は、魚雷部品の仕上工として発射試験場に何度か来たことがあった。

 試験場から手こぎ船で帰る途中、上官から「魂込めて造らんば」と叱咤(しった)激励されたことが忘れられない。当時は懸命だったが、振り返ると「本当にみじめな時代やった」と思う。

 戦時中の魚雷発射試験場を知る人はずいぶんと減った。「当時払った犠牲の上に今の日本があることを後世に伝えていかんば。あの時代を伝える遺構は必要やと思う」

 (岩佐遼介)

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