恐怖を刷り込む数字 感染リスク管理する「羊飼い」の視点とは

 あらたな年が明けたのに、気分の晴れない日がつづく。毎日発表される数字の上下に気持ちまでかき乱される。都道府県や市町村ごとに集計され、公表される感染者数、重症者数、死者数……。そんな数字が暮らしや心のなかに入り込み、日々の営みを左右する。ウイルスよりも、むしろこの「数」との向き合い方を問われている気がする。

 医療人類学者の磯野真穂は、去年5月、緊急事態宣言下で緊急出版された『新型コロナ 19氏の意見』(農文協)のなかで、こうした状況への違和感を表明していた。多くの人は自分で体験したわけでもないのに、情報だけで不安になり外出などを控える。「それは、日々私たちがテレビや新聞、SNSなどのメディアに流れる数字、統計予測、映像を通じてその情報を得ているからである。デジタルを媒介した視覚情報が私たちに恐怖を擦り込んでいる」

 個人の身体に関する情報が数値化され、統計によって未来が予測される。自分の身体感覚よりも、その予測に従うことが求められる。20世紀後半から進行してきたこの傾向が今回、一気に世界を覆った。磯野はそれを「統計と映像が、健康を掲げて身体を駆逐した」と表現する。

 さらに磯野は豚コレラ鳥インフルエンザによって豚や鶏が殺処分されることに言及する。実際その後、鳥インフルエンザで何十万羽という鶏が殺処分される事態になった。ほとんどの人はその残酷さから目を逸(そ)らす。でもほんとうに目を背けたいと思っているのは、私たちが科学の力でつくりあげたと信じる社会が安心・安全ではなかった事実なのではないか。磯野の言葉は、中立で客観的にみえる「数字」の背後で、深刻な問いが覆い隠されたままであることをえぐりだす。

 同書に寄稿したもう一人の人類学者の猪瀬浩平は、緊急事態のなかで一人一人の固有の経験がかき消されることへの戸惑いをつづる。「もしコロナウイルスに感染したとしたら、私は匿名化され、しかしその行動履歴だけは遠慮もなくトレースされて世間にさらされる。……私の身体も、私の経験も、今は私のものではないように感じている」。そこでは固有のかけがえのない存在として自分や他者を感知することが、ウイルスが奪ったものへの抵抗になる。

 猪瀬は、誰もが「私だけの死」に向かう存在であるからこそつながりあえるという。そして感染が拡大するなか、祖母が曾祖父について聞かせてくれた話を母親に語ったエピソードにふれる。曾祖父の妹はスペイン風邪で夭折(ようせつ)した。半日ほど母親と一緒にいてさまざまな不安を語り合った猪瀬は、こんな状況だからこそ母親のことも、亡くなった曾祖父やその妹のことも、その存在をよりリアルに強く感じることができたという。固有の存在として分割されながらも、それぞれの身に起きた出来事を共有することで結びつく。その文章からは、人類学がなぜ客観的な数値ではなく、人間の個別で具体的な生にこだわってきたのかが透けてみえる。

 昨年の『現代思想』8月号で猪瀬と往復書簡を交した久保明教は、危機のなかで「羊」が「羊飼い」の視点を内面化するようになったと指摘する。本来、羊である私たちの多くは自分や周囲のことだけを気にかけて生きてきた。その羊が、群れ全体を把握してリスク管理しようとする羊飼いの視点をもつと、かけがえのない存在だったはずの自分自身を群れのなかの匿名な個体とみなすようになる。

 数字で現状を把握し、感染拡大を恐れてマスクを着けて外出する。そのとき、人は集団全体の感染リスクを気にかける羊飼いの視点に立つ。そしてみずから進んで匿名な存在となる。こうしてあらわれた従来とは異なる「新型コロナ人間」がやがてふつうの「人間」の位置を占めるようになる。久保は、その変化への違和感すらも失われてしまう未来を暗示する。

 人類学はときに主観的だとか、個別事例にすぎないと批判されてきた。でも同じ固有の存在として他者と関わるのには理由がある。政府が本来の「羊飼い」の役割を果たせないなか、刻々と感染者の数が報じられ、市民がその推移を気にかけて行動を自制する。そこで見失われ、いつの間にか変質してしまうものがある。人類学者のレンズは、その水面下の動きをとらえようと個別の生の文脈に潜りこみ、この移りゆく世界で生きる意味を探ろうとしている。

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 ◆松村圭一郎(まつむら・けいいちろう) 1975年、熊本市生まれ。岡山大准教授(文化人類学)。京都大大学院博士課程修了。エチオピアでフィールドワークを続け、富の所有と分配などを研究。「うしろめたさの人類学」で毎日出版文化賞特別賞。近著に「これからの大学」「はみだしの人類学」。

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