戦場を福島を伝え続ける、カメラを向けた者の責任 豊田直巳さんは語る

3・11から10年 豊田直巳さんインタビュー(下)

 福島第1原発事故の被害者たちをドキュメンタリー映画や写真集などで記録してきたフォトジャーナリスト、豊田直巳さん(64)。事故から10年を迎えようとする今の思いを聞くインタビューの後編は、海外の戦地、紛争地に飛び込んだ20代の頃の話から。

塾講師の20代、中東の紛争地に飛び込む

 豊田さんが写真や映像の世界に入ったのは、核兵器反対運動が盛り上がった1982年。当時はアルバイトで学習塾の講師をしていた。自宅の茶の間のテレビでレバノン戦争の様子が連日放送されるのを見て、現地の様子を自分の目で確かめたくなり、シリアやレバノンを訪ねたのがきっかけだ。

 「休みを取り現地に入って気付いたのは、砲爆撃が日常である紛争地にも人々の暮らしがある、ということ。戦火にさらされるパレスチナ難民たちは生活に困窮し、『惨状を伝えてほしい』と口々に訴えた。撮った写真を週刊誌に持ち込んで報道された。家に泊めてくれる親しい知人もできて、何度も訪ねた。実態を知ってもらい、戦争を止める一助になれば、と思った」

 それからは中東など主に紛争地を取材。カンボジアやインドネシア、旧ユーゴスラビアにも入った。中でも、イラクでは、今につながる放射能被ばく問題に向き合った。

 「湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾の放射能がイラクの人々の健康を害していると知って、1999年から取材に入った。バスラの被弾現場を撮影し、バグダッドなどの病院を回る。がんや白血病の子どもたちを撮った。顔や首が腫れた子もいた。不快に思われるかもしれないが、実態を伝えたかった。孫娘に付き添う、あるおばあさんから『写真が欲しいんじゃない。薬が欲しいんだ』と言われたこともあった」

 米国同時多発テロの後、2003年、イラク戦争の開戦と同時に現地に入って取材を重ねた。

 「被弾し手や足を失い病院に担ぎ込まれた子どもや少年、成人女性など一般市民にカメラを向けさせてもらった。取材をしながら『知ってしまった者』『撮影した者』として、戦争の現実を伝える責任があると強く思った」

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