「まだ10年」九州の応援職員が見たフクシマの現実

 東日本大震災に続く東京電力福島第1原発事故で全町避難を余儀なくされた福島県浪江町。8割のエリアが居住できない「帰還困難区域」に指定されている町の応援職員、大分県中津市の磯野宏実さん(60)はこの1年、フクシマの現実を見てきた。類例のない被害からの復興は手探りの状態。震災からの歳月は「まだ10年」と感じる、と言う。 

 「この光景が、駅前に見えますか」。磯野さんは静かに話した。昨年3月、9年ぶりに全線が開通したJR浪江駅。飲食店や商店でにぎわった面影はなく、空き地と雑草が目につく。設置された放射線量計の表示データは「0・189」。国目標値の毎時換算は0・23マイクロシーベルト。駅前ホテルは建設会社の社員寮に用途を変え、コンクリートの校舎が解体を待つ。小中学9校のうち7校の廃校が決まっている。「子どもたちが戻らない」が理由だ。

 町で原発から最も近い場所までの距離は4キロ。駅や役場がある沿岸域の町中心部に限って居住が認められたのは震災から6年後。2万1千人を数えた人口は、1月末現在で1579人しか戻っていない。いや、戻れていない。居住が認められないエリアの除染が今も続き、日々、汚染土を詰めた黒い袋が積まれていく。「これが現状ですよ」

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 2011年3月11日。中津市職員として市民病院に勤めていた磯野さんは、テレビ画面の向こうの荒ぶる波に立ちすくんだ。「何かできることはないか」。その思いが消えず、市消防本部の消防長を最後に定年退職した昨春、約千キロ離れた浪江町派遣を前提とする市の再任用職員に手を挙げた。任期は1年だ。

 担当はカーシェアリング事業に決まった。町に戻った住民には家を津波で失ったり、帰還困難区域に家があったりして、災害公営住宅に暮らす人が少なくない。「望郷」に駆られた高齢者が目立つ。隣人を知らず、独居も多い中で、住民のつながりを築くやりがいのある事業だと感じる。

 今月4日、案内チラシを手に84世帯が入居する団地に向かった。なじみになった鎌田豊美さん(73)との会話が楽しい。「カマさんいないとうまくいかんのよ」「なにうめぇこと言ってんだ」。九州弁と東北弁の掛け合いが、心をつなぐ。

 「町づくりは人づくり。一緒に汗をかいてくれる人がいないと始まらない」。中津で感じたそんな思いをここで深めた。

 活動中、ふと、現実に戻る。町職員約300人のうち2割が磯野さんのような町外からの応援組。残る8割の地元組と、高齢者を中心とする帰郷者、除染や道路復旧を担う長期滞在の工事関係者が「浪江町民」だ。

 町は14年後に人口約8千人との青写真を描くが、町外避難者を対象とする昨年の最新の住民意向調査では「戻らないと決めている」が54・5%を占めた。

 3月末で応援期間を終え、戻る。浪江、福島の今を「見たまんま、聞いたまんま」伝えたい。手探りの復興は、まだ始まったばかり。「九州で、できることがきっとある」 (梅沢平)

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