「復興」は半ば 写真で見る被災地”あの日”と今

 各地に巨大な防潮堤が造られ、地盤は大幅にかさ上げされていた。東日本大震災から間もなく10年。かつての津波被災エリアで再び暮らし始めた人たちもいる。震災直後の2011年3月下旬に訪れた岩手県の沿岸部を、今年2月下旬に再訪した。「復興」のための土木事業が進み、風景が一変した被災地の様子を当時と今の写真で伝える。(特別編集委員・長谷川彰)

民間の震災遺稿

 中心市街地が壊滅した陸前高田市。広大な空き地に被災ビルがポツンと一つ立っている。包装資材を扱う「米沢商会」の米沢祐一さんが残した「震災遺構」だ。自身はビル屋上で津波をしのいだが、両親と弟を避難先で亡くした。

(上)陸前高田市の市街地跡に残る米沢商会のビル。周囲は約2メートル、背後の一帯は最大12メートルかさ上げされている=2月24日(下)被災直後の米沢商会のビル。左後方に見えるのは市庁舎=2011年3月27日撮影

 背後のかさ上げされた土地に商業施設などが集まり、街が一新されていく。「津波被害に限らず、常に防災意識を持ち続けようという思いが伝われば」と自費で維持を続ける。あの震災の記憶をとどめる貴重なランドマークだ。

「すぐ逃げる準備」

 役場庁舎が津波にのまれ町長も行方不明となって衝撃を広げた大槌町。かつての市街地に新築の家が目につく。震災時は家族全員で近くの山に逃げたと話す年配夫婦は、3年前に家を建てた。「やはり便利だからね」。巨大防潮堤の整備も背中を押したが「だから安心だとは思わない。注意報が出たらすぐ逃げられる準備はしている」という。

(上)巨大な防潮堤が整備され、海の近くに人が住み始めた大槌町=2月22日(下)住宅の大半が津波に押し流された被災直後の大槌町=2011年3月28日

再建進む”万里の長城”

 昭和の三陸津波(1933年)を機に、宮古市田老地区に造られた10メートルの高さの防潮堤は“万里の長城”と呼ばれた。東日本大震災の大津波はそれを乗り越え一部を破壊、街を襲った。今、約15メートルに増強されて再建が進む。

(上)宮古市田老地区に築かれた新しい防潮堤=2月21日(下)被災直後の田老漁港付近=2011年3月30日

宮古市鍬ケ崎地区

(左)町並みが復活しつつある宮古市鍬ケ崎地区=2月22日(右)被災直後は近くの港から船が打ち上げられていた=2011年3月30日

大槌町吉里吉里地区

(上)頑丈な防潮堤の整備が進む大槌町の吉里吉里漁港付近=2月21日(下)破壊されたコンクリートの破片が津波の威力を見せつけていた=2011年3月28日

大槌町赤浜地区

(上)防潮堤が一新された大槌町赤浜地区=2月21日(下)被災直後は津波に運ばれた観光船が民宿の屋根に乗り上げた光景が象徴的だった=2011年3月28日

大船渡市綾里地区

(上)津波浸水想定区域の標識の向こう側に住宅が再建されつつある大船渡市綾里地区=2月23日(下)10年前、一帯は津波に押し流され、漁船が打ち上げられるなどしていた=2011年3月31日
(上)大船渡市の綾里漁港そばで防潮堤の建設が進んでいた=2月23日(下)被災直後はがれきばかりが目につく光景が広がっていた=2011年3月31日

陸前高田市

(上)陸前高田市の高田松原の外れにあった一本松が津波襲来後も立ち続け、「奇跡」と呼ばれて復興に向けたシンボルとなった。残念ながら枯死したが復元保存されている=2月23日(下)高田松原は引き波の際に運ばれたがれきで軒並み破壊されたという。一本松は、単独だったゆえにうまくやり過ごせたのでは、と、地元の人は言う=2011年3月27日
(上)高田松原そばにあった三角柱を横にした形の建物は道の駅だった。震災遺構として残す計画という=2月24日(下)この一帯は、被災後もなかなか水が引かず、警察官が日々、行方不明者の捜索を続けていた=2011年3月27日

 

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