「全会一致の壁」国軍追認の歴史…ミャンマー問題、ASEANを翻弄

 【バンコク川合秀紀】東南アジア諸国連合(ASEAN)にとって、ミャンマーは1997年の加盟時から頭痛の種だった。地域安定のため民主化や人権侵害の改善を促してきたが、全会一致ルールに縛られて強硬手段が取れず、結果的に国軍の強権を追認し続けた歴史がある。今回も足並みをそろえて有効策を打ち出せるかは見通せない。

 「(クーデターから)引き返さないなら、ASEANからミャンマーを除名する手続きを進めるべきだ」。クーデター直後の2月初め、ASEAN加盟国の人権派国会議員団は記者会見で訴えた。

 「ミャンマー除名」を求める声は過去にも数度上がった。2002年に2回目の自宅軟禁を解かれたアウン・サン・スー・チー氏が翌03年に再び当局に拘束されると、当時のマレーシア首相が「除名を考慮すべきだ」と訴えた。17年に少数民族ロヒンギャが当局の迫害を恐れてミャンマーから大量流出した際も、加盟国の国会議員団が除名や制裁を求めた。

 こうした動きが掛け声だけに終わった要因の一つが、ASEAN憲章で定める全会一致ルールだ。民主主義や人権尊重をうたった憲章に違反した場合の除名や制裁措置も、当事国が拒否すれば成立しない。外交筋は「ASEANはどの加盟国にも民主化や人権侵害の課題があり、制裁や除名が正式提案されたことは一度もない。今回もないのは確実だ」とみる。

 強硬措置の代わりにASEANが重視するのが「建設的関与」と呼ばれる対話路線。旧軍政下のミャンマーでも、事態が緊迫するたびに特使を派遣したり、加盟国の首相らが民主化に向けたロードマップ案を軍政側に提案したりした。

 一方の軍政側はスー・チー氏の自宅軟禁と解除を計3回も繰り返し、同氏と外部との面会や民主活動家の釈放なども交渉カードに使ってASEAN側を翻弄(ほんろう)。民主化の歩みを遅らせた。88年のクーデターから民主化ロードマップ発表まで15年、民政移管までさらに8年を費やし、対話路線が軍政の延命につながった側面は否定できない。

 今回、臨時外相会議の開催を働きかけたインドネシアなどは国軍に総選挙の実施とスー・チー氏率いる与党国民民主連盟(NLD)の選挙参加を確約させる和解案を持つとされる。だが「スー・チー氏の処遇やデモ対応などの交渉カード」(外交筋)を持つ国軍がすぐに軟化するとは考えにくい。交渉に入ったとしても長期化して軍政が再び定着する恐れをはらむ。

関連記事

PR

国際 アクセスランキング

PR