ダイエーの軌跡(中)急転直下の復帰劇 平山敞氏に聞く【復刻連載】

※大手スーパーダイエーの元副社長で、79歳で死去した故・平山敞(ひらやま・たかし)さん。地場の旧ユニード(福岡市)や旧ニコニコ堂(熊本市)の社長を歴任し、福岡・九州の流通に大きな足跡を残した平山さんへの生前のインタビューを復刻します。記事は2014年11月10日に経済電子版「qbiz」に掲載。文中の年齢、肩書、名称などの情報は全て、掲載当時のものです。

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 ユニードの社長は最初から4年間と思っていた。だらだらやらずに、短期間で結果を出すつもりだった。

 そろそろ異動かなと考えていた時だった。故中内〓(いさお、「工」へんに刀」)さんに呼び出された。JR博多駅近くの寿司店で会った中内さんから、同じダイエーグループのスーパー『十字屋』(東京)の社長にいくように伝えられた。詳しく覚えていないが、要するに「立て直してほしい」ということだった。

 納得できなかった。ユニードを再建した自負もある。外からダイエーを見て、「このままであればダイエー本体が危なくなる」と思っていた。いろんな思いが交錯して、「もうええですわ」と席を立った。26年間世話になったダイエーに見切りをつけた瞬間だった。

 振り返ると、ダイエーが本当におかしくなり始めたのは、あのころだった。中内さんは若いころ、周囲に「息子には会社は継がせるつもりはない」と明言していた。そんな中内さんを尊敬していた。

 だが、次第に雰囲気が変わった。中内さんに耳の痛い話をできる社員が減り、中内さんは長男への経営移譲に向けて動き始めた。

 《ダイエーは94年にユニードダイエー(旧ユニード)などグループ3社を吸収し、巨大化。強大な「中央集権型」の経営に移したが、バブル経済の崩壊や競合各社の追い上げで業績が悪化し、99年に社員3千人を削減する再生計画を発表。銀行主導の経営再建が本格的に始まり、2000年10月には創業者の中内氏が取締役退任を公表。元常務の高木邦夫氏が次期社長に内定し、平山氏も01年1月に営業トップの代表取締役副社長として復帰することになった》

 世話になった地元の銀行の頭取から頼まれて、00年に地場スーパーのニコニコ堂(熊本市)の社長に就いていた。ニコニコ堂も過去の過大投資のつけで、借金が多く、元気がなかった。

 社長を引き受けたのはいいが、改装したくても資金がない。悩んでいた時に、高木さんから突然電話が入った。

 「ダイエーの営業を立て直せるのは平山さんしかできません」

 驚いたが、高木さんと私は、ダイエーが苦しい時に、一緒に働いた仲間。ダイエーが破綻したら大きな社会問題になる。自分の経験を生かせば何とかなると思った。

 「ダイエーがニコニコ堂をバックアップしてくれるか?」。私は高木さんにこう条件を示し、引き受けることにした。ニコニコ堂の社長になって1年もたっていなかったが、ダイエーと仕入れを共同化し、人的支援も受けることがニコニコ堂の再建の早道になると考えた。急転直下の復帰はこうして決まった。

=聞き手は曽山茂志

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