「朝倉のおいしゃん」究める "半農半芸"へ一歩

シン・フクオカ人(25)

 〈雨にも負けず、風にも負けず進んでいると、おのずと道が開けるものだ〉

 全く笑えなかった。2020年4月、新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言が出ると、福岡市のお笑い芸人・町田隼人(36)は、仕事が次々に消えていった。テレビ、舞台、イベント司会-。スケジュール帳は真っ白になり、目の前は真っ暗になった。特に骨身にこたえたのが、民放テレビ局テレQの「雨ニモマケズ、」(毎週日曜午前11時)の撮影休止だった。初めての冠番組で、経済的にも精神的にも痛かった。

 「雨ニモ-」では、赤いほっぺと太い眉、黄色い帽子がトレードマークの朝倉幸男にふんし、九州各地の田舎町を巡る。福岡県朝倉郡の筑前町出身という設定は本物。「なんばしよんなあとですか?」。朝倉弁丸出しで、偶然出会った人をつかまえては話を聞く。

 台本なしのぶっつけ本番。人がいるところには必ず笑いのタネが転がっていて、心打たれる涙や名言に出くわすこともある。放送は4年目を迎え、140回を超えた。今では、本名よりも「幸男さん」と声を掛けられる方が圧倒的に多い。

 「笑ってもらえて、その上『ありがとう』って言ってくんなさる。それが仕事になるんやけ、幸せですたいなぁ」

お笑い芸人の「原点」について語る町田隼人さん

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 芸人生活14年、いくつものキャラクターを迷走してきた。筋骨隆々のふくらはぎが自慢の「生まれて一度もかかとを地面に付けたことがない男」に始まり、アイドル好きのオタク、破天荒な男。でもしっくりこない。空回りし、カメラを向けられるのが怖い日すらあった。アルバイトで食いつなぎ、もがき続けた。

 「自分は朝倉の田舎もん。結局、自分の中にあるものしかでけん」

 子どもの頃から面白みを感じていた近所のおいしゃん、おばしゃんの物まねや、田舎特有の「あるある」をネタにした。オーディションに受かったのも、この“朝倉芸”だった。

 原点に戻ったら、仕事が入り始めた。テレビ局の目に留まり、「雨ニモ-」にもつながった。朝倉幸男は、歩んできた人生の塊。愛情を注いでもらった故郷の記憶そのものだ。

 だが充実していた日々は、コロナ禍に沈んだ。

 自宅で縮こまっていると、「暇なら農業を手伝ってみらん?」と旧知のカメラマンに誘われた。二つ返事で、久留米市や直方市の農園に通った。無心で畑を耕し、イチゴや野菜の苗を植えた。土を素手で触っていると心が軽くなる。雲ひとつない青空、どこまでも続く平野。頭と視界がクリアになっていった。

 4カ月ほどたって撮影は再開した。町歩きはできず、事前に許可を取った農家などでの「お手伝いドキュメンタリー」に変わった。草刈りだけの回もあれば、枝拾いだけの回も。出会う人はみんなしなやかで格好よく、明るい。その人生の物語にも励まされた。

撮影現場で子どもたちに人気の町田隼人さん

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 ところが再スタートから急転直下、番組は3月末で終了することが決まった。コロナ禍が恨めしくもある一方、番組はいつか終わるものだという心構えは常にあった。芸人として、この先どこへ向かうのか。

 「地元ん帰って、農業ば始めよう」

 本腰を入れてやってみたいとの思いが芽生えた。それが“朝倉芸”にもつながる気がする。農家のおいしゃんがラジオDJをしたり、農園でライブを開いたりしてもいいじゃないか。唯一無二の芸人になりたい。目指すは「半農半芸」だ。

 くしくも、「雨ニモマケズ」の詩を残した宮沢賢治も30歳にして農業を始めた。その傍ら創作活動を続け、農業と芸術は深く結び付いていると説いた。「風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」。賢治の叫びが、今なら理解できる。

 考えてみれば、わが家は先祖代々続く農家だった。「源平合戦に敗れて朝倉に落ち延びたという、平家に付いてきた農民らしかです。だけんか性に合っとる気のするとです」

 自分の根っこは故郷にある。その根を深く伸ばし、土を耕し、芸を磨こう。

 「これからは、朝倉幸男を地で生きていこうと思うちょります」

=敬称略(平田紀子)

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