一度離れた南相馬だから…住むことが「恩返し」

【東日本大震災10年 4年2組 20歳の肖像②】志賀隼人さん

 午前7時半。澄んだ冬空の下、自宅を自転車で飛び出した。福島県南相馬市の朝は0度を下回るが、志賀隼人さん(20)にはこのくらいが心地よい。一軒家が並ぶ路地を一こぎずつ、ペダルを踏んで職場へ向かう。

 この街を一度だけ離れたことがある。2011年3月の東日本大震災。教室で被災し、集団下校中に迎えに来た母と合流した。自宅に戻ったが、原発事故で数日後には祖父母や5歳下の弟も一緒に郡山市の父の単身赴任先へ避難。保養所などを転々とし、5月にはさいたま市内の空き家に落ち着いた。

 空は狭く、人工芝の校庭に、夜も明るい街並み。初めて乗る電車は切符を買うにも四苦八苦して、常に誰かにせかされているようだった。「家族で川の字に寝ていた広いベッドとか、使い慣れた家電とか。自分の家のささいなことが、とにかく恋しかった」

小学5年生の頃の志賀隼人さん

 一家は12年春に南相馬に戻った。震災直後は別の小学校舎を使っていた原町第三小も元の校舎での授業を再開していた。しかし、震災時の3クラスは二つに減少。4年2組で仲の良かった友達はほとんど転校したままだった。「あの頃は戻んないんだな…」。余計に寂しさが募った。

 そこから数年は「人生の中で闇の部分」だ。中学でいじめに遭い、3年の初めごろから学校に行けなくなった。通信制高校に入ったものの最初の1年は何も手に付かなかった。

 母が学生時代に使っていたベッドで眠り、大きなテーブルで家族と夕食を囲んだ。ゆっくり、家の中で、心が癒えるのを待った。いわゆる「引きこもり」の状態だったが、生まれ育った家が守ってくれていたのかもしれない。

 「家までなくなっていたらおかしくなっていたかも。震災では家族や家を失った人もいて、どれだけつらいだろうって」

 午前8時、エプロンを身に着けて包丁を持つ。大型スーパーの鮮魚売り場が今の志賀さんの職場だ。通信制課程を4年で終え、車の免許を取った勢いで就職活動。地元のハローワークで求人を見つけた。紹介してくれた職員も面接官も、自分の弱さを優しく受け止め背中を押してくれた。

 ガラス張りの作業場からは、志賀さんが切り身にしたサケやタラを手に取る買い物客たちの姿もよく見える。このところ、周辺では新築住宅が目立ち、市内の世帯数は微増傾向にある。「人が増えないと店もできないし、やっと街に活気が出てきた」と思う。

 午後1時、仕事を終えて大通り沿いの書店へ向かった。子どもの頃から行きつけの店。昨年11月、初めて給料が振り込まれた通帳を見て「このお金で街に恩返ししたい」と考えるようになった。漫画も服も食べ物も、できるだけこの街で買って、店や人が増えてほしい。「住むだけでもそれが復興になる」

 自分もこの街も、ようやく坂を上り始めた気がしている。

関連記事

PR

社会 アクセスランキング

PR