「ひどいことを…」亡き妻と幼子へ、10年消えぬ後悔

東日本大震災10年、消えない後悔

 10年たっても消えない後悔がある。宮城県石巻市の消防士(39)はあの日の朝、妻を怒鳴りつけ、仕事に出た。アパート1階のベランダで顔を紅潮させた妻。抱かれた1歳2カ月の娘も大声に驚き、泣きだしそうだった。それが、2人との最後だった。

苦手なアイロンをかけてくれた柄シャツ

 内勤2年目、年度末で忙しかった。「男は働けばいい」。一昔前の気質で子育てや家事はほぼ任せっきり。小さな衝突が重なり、夫婦関係はギクシャクしていた。その夜も送別会で遅くなる予定だった。アイロンがけが苦手な妻が仕事着のほかに宴席用の柄シャツも準備してくれていた。

 「こんなしわだらけのシャツなんて、恥ずかしくて着れねえべ」。よく確かめもせず、いら立ちをぶつけた。車の窓から見えた妻は何か言いたげだった。

 その数日前、妻から相談を受けていた。「地震が続くから、実家に戻るのはやめておいた方がいいかな」「避難は支所でいいよね」。妻の実家は北上川河口に近く、鉄骨2階建ての市役所北上総合支所が指定避難所だった。「それでいいよ」。素っ気なく答えた。

 妻に暴言を吐いた日の午後2時46分、東日本大震災が起きた。騒然とした消防本部庁舎で妻からのメールを受けた。「支所に避難しました」。一安心したがしばらくは会えないと思い、「子連れで大変だろうけど、頑張って」と送った。

いつ戻ってきてもいいように

 被害状況の把握や職員の安否確認に追われ、現場にも出た。支所周辺の惨状は無線で知っていたが、誰もが不眠不休で活動する中、自分のことはしまい込んだ。メールへの返信はない。「どうしたのかな」「生きていてほしい」「無理かも」。1週間後、上司に促されて支所に向かった。津波は想定された最高水位の2倍を超える13・8メートルに達し、屋根もなく大破していた。「やっぱり、駄目だったんだ…」

 身を寄せた市民や職員57人のうち生き残った3人のほかは津波にのまれた。義姉と2人の子どもは遺体で見つかったが、妻と娘、義母の行方は分からなかった。福岡や大阪の消防士の仲間が長期の休みを取って、入れ代わり立ち代わり捜索に駆け付けてくれた。半年間、ヘドロや土砂をさらった。

 陸地は調べ尽くし、義兄と入り江にも行った。急な岩場を伝っていた時、海に転落。何とか引き上げられ、顔面や頭の骨折、脳内出血で助かった。本当は海で死にたかった。

 床上浸水したアパートは妻と娘がいつ戻ってきてもいいようにきれいに元通りにした。おもちゃ箱も洗って乾かし、テープで補強した。1人で毎日泣いた。心配した上司に「実家に帰れ」と強く言われ、震災から3年後、遺品を手にそのアパートを引き払った。

自宅リビングには亡くなった妻と娘の写真や遺品がきれいに並べられている

あの日の朝に戻りたい

 救ってくれたのは知人を通じ、知り合った女性(36)。妻との結婚記念日や娘の誕生日には花を飾り、一緒に祝ってくれた。一番の理解者だった。3年前に再婚し、昨年3月9日、男女の双子が生まれた。娘のきょうだいと分かるよう似た名前を付けた。

 幸せな暮らしは、時に2人への後悔を呼び起こす。あの時の青のストライプシャツは妻からの贈り物だった。葬儀で袖を通し、気付いた。しわ一つなく、きれいにアイロンがかけられていたことを-。

 苦手なことを一生懸命してくれたのに…仲直りのサインだったのかもしれないのに…。なぜ、あんな皮肉を言い放ったのか。「ありがとう」「ごめん」がすぐに言えなかったのか。

 実家に向かうことをためらっていた妻はあの日、愚痴をこぼしに行ったのだと思う。「ひどいことを…。俺はくそ野郎だ」。あの日の朝に戻りたい。

 月命日には必ず2人が眠る追波(おっぱ)湾を望む支所跡地の慰霊碑を訪れ、こう伝える。「子育ても手伝っているよ」。亡き妻と娘よ、安らかに。

 (上野洋光)

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