東北、熊本、朝倉…「どの被災地も誰かの古里」

東日本大震災 記憶を刻む

 東日本大震災にまつわる体験を伝える西日本新聞と全国の地方紙14紙との企画「記憶を刻む」に便りを寄せた一人、福岡県朝倉市の感王寺(かんのうじ)美智子さん(60)。震災翌年に夫、修さん(65)が宮城県の「復興支援職員」となり、東京から被害が大きかった気仙沼へ移り住んだ。その後も熊本、朝倉と被災地を渡り歩き、大切なものは日々の暮らしの中にある、と気付いたという。

 ≪何かボランティア活動を、と張り切っていましたが、技術も特技もなく、乳がんの治療が続いていた私は体力さえありませんでした。「トーチョー(東京)の人、おらたちにハマれ(仲間に入れ)」。そんな私に仮設住宅の人たちが声を掛けてくれました≫

 住まいは中学校の校庭のプレハブの仮設住宅。並んで建つ約80戸には高齢者が多かった。周りは身内を亡くした人ばかり。どう付き合おうかと思案したが、自治会長の言葉に救われた。

 ≪「仮設住宅の暮らしっていうと、つらいでしょ? とかしんどいでしょ? とかばっか言われるべ。だどもおらたちは違う。みんなで楽しい思い出いっぺえつくるだ。そして10年後、あんときはおもしれかったなーって、みんなで思い出話するだ」≫

 お向かいさんが窓から差し入れてくれる魚のあら、白菜の古漬け、酒かすを煮込んだ郷土食の「あざら」。九州から駆け落ちした女性が語る数十年前の恋愛話。公営住宅に越した後も、みんなに会いたくて仮設に通うおばあちゃんの「忘れもんした」という言い訳。「部外者の私」を受け入れてくれた。

 ≪花を植えたり、小さな畑を耕したり、歌を歌ったり。ともに笑い、時にはともに泣き、ともに暮らす日々。支援に来た私は、逆に被災者の皆さんから本当に大切なものを教えられていきました≫

 「あの日」を語る時も湿っぽさはなかった。でも津波で別れた人を振り返る、さらっとした語り口が逆に胸をえぐった。

 震災から丸1年を迎えた日。スーツ姿で集会所に行くと、みんなエプロン姿。震災直後にボランティアが準備してくれた温かい炊き出しを忘れないように、「3・11」は追悼だけでなく、食事を囲み、感謝を思い起こす日になっていた。そんな中、熊本地震が起きた。「今度は私が経験を生かすべきだ」と思いつつも、離れ難い気持ちがあった。

 ≪「熊本もよろしく頼むべ」。躊躇(ちゅうちょ)する背中を押してくれたのは気仙沼の皆さんでした。遠く離れた熊本を、同じ古里と思いやる気仙沼の人たちの心でした≫

 臨時職員として被災地を転々とする夫に付いて2017年4月に熊本県阿蘇市、翌年には九州豪雨で被災した朝倉市へ。1級土木施工管理技士の夫は今も復興に携わる。「あんたならば役に立てっから」という言葉を胸に、支援やボランティアの受け入れに当たった。

 ≪大切なものは足元に、暮らす日々にあることを被災者の皆さまから教わりました…どこであっても、そこは誰かの古里。すべては古里だから≫

 被災地で出会う人の縁、気付き、学び-。一つ一つが織りなす日常に、忘れかけていた自らの古里への思いを重ねた。移り住んだ3カ所の被災地。どこに暮らす人も古里を思う気持ちは共通していた。

 ≪仮設住宅のあったグラウンドは、今は生徒たちが伸び伸びと駆け回っていることでしょう。今年は再会の約束の10年です≫

 今年も11日を迎えた。コロナ禍で再会はまだ先になるかもしれないが、きっと一緒に笑い合える。

(構成・梅沢平)

 

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