戦後14年、対馬に米軍がいた 住民と野球、結婚

 戦後の一時期、長崎県の対馬には米軍が駐留していた。その事実を記憶する住民が少なくなる中、対馬観光ガイドの会「やんこも」の会員で民泊を経営する権藤悦教(よしのり)さん(70)=同県対馬市厳原町豆酘(つつ)=が、地元で米軍についての聞き取り調査を行った。海峡を挟んだ朝鮮半島では朝鮮戦争が勃発し、冷戦の緊張が高まっていた頃。国境の島に刻まれた戦後史の一端が浮かび上がった。

 権藤さんが駐留米軍に興味を持ったのは、叔母から「若い頃、豆酘崎(つつざき)にいた駐留軍(米軍)のパーティーに参加したのよ」という思い出話を聞いたのがきっかけだ。地元では尾崎山とも呼ばれる豆酘崎には旧日本軍の砲台跡などが残る。

 厳原町誌(1997年発行)によると対馬に米軍が上陸したのは45年11月。占領軍の将兵約300人が軍艦2隻で厳原港に入港した。目的は大戦中に整備された砲台の破壊だったが、日本独立後も日米安保条約に基づく駐留軍として通信施設や通信隊が置かれた。朝鮮戦争後は上対馬の海栗(うに)島などにも基地があり、小規模の兵が駐留したという。米軍は59年5月、海栗島の基地が航空自衛隊に移管されたのを最後に撤収し、対馬駐留は14年だった。

 権藤さんの叔母が出向いた米軍の駐留先、豆酘崎は対馬の南端に位置し、58年末まで電探基地があったとの記録がある。2月上旬、権藤さんは豆酘崎地区の集落を歩き、男女計8人から当時の様子を聞き取った。浮かび上がったのは、国境の島の日常に組み込まれていた米軍の姿だった。

 「当時12歳、小学6年生の時、豆酘小のグラウンドで駐留米軍と野球の試合をした。実家の別棟の建物には米軍2人が宿泊していた」(80歳男性)

 「85歳になる親類の女性は駐留米軍の兵隊とお付き合いをし、結婚に至った。57年頃、米国に渡った。現在でも健在でニュージャージー州に住んでいる。これまで2回ほど里帰りを果たしている」(60代男性)

 ある民家の遺品箱からは、米軍の駐留地でクリーニング担当として働いた男性の給与明細書も見つかった。支給月は55年4月。健康保険料300円、厚生年金180円、失業保険92円を差し引いた支給額は1万1256円と記されていた。退職手当支給申請書も残されていた。

 駐留地には野営用のテントが並び、兵士はここで寝起きしていたらしい。住民が保管していた当時の写真には「T-19」のプレートがかかったテントを前に記念撮影する日本人らしい男性3人が写っている。そこに「国境の島」の緊張感は感じられない。

 だが、対馬から約50キロしか離れていない朝鮮半島では、同じ民族が38度線を挟んでにらみ合う「戦争状態」が今も続く。権藤さんは「当時の平和な日常に加え給与明細書まで見つかったのは驚きだった。米軍が駐留していたのは、半島の有事に備え警戒を強めていたのだろう。平和の意味を改めて考えるきっかけにもなった」と振り返った。 (平江望)

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