ここが日本の首都だった?【朝倉橘広庭宮跡・朝倉市】

※記事は2010年9月18日付本紙朝刊から。文中の年齢、肩書、名称などの情報はすべて掲載当時のものです※

 先ごろ、奈良県で墳墓が事実上特定され、話題となった斉明天皇(594―661)。「大化の改新」の立役者、中大兄皇子の母親として知られるが、この女帝、実は畿内から遠く離れた九州に「都」を移したことがあるのだという。しかも、今は三連水車が回るのどかな田園地帯、朝倉の地に。「世が世なら、朝倉が日本の首都?」。記者には驚きの史実。解き明かそうと、ハンドルを握った。ご存じか。「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」という“幻”の朝廷の存在を-。

 「橘広庭宮ノ蹟(あと)」。そう刻まれた石碑が、ひっそりと立っていた。朝倉市中心部から車で40分ほどの須川地区。柿園の間を縫うように、曲がりくねった道を進み、ぶつかった森の中だ。

 これが朝廷の跡か。だが、建物跡の礎石も、遺跡らしきものも見当たらない。よく見ると案内板には「現在、朝倉橘広庭宮の所在は分かっていない。地元の伝承では…」。ちょっと心もとない。

 誰かに聞こうにも、周囲は柿園。とぼとぼと近くの集落まで歩き、声が聞こえた石材店に入った。「父から聞いた事はありますが…。えーと、斉明天皇でしたっけ」と女性。地元でも、はっきりしたことはつかめなかった。

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 ところがである。「日本書紀」にその存在が記されていたのだ。同書には、斉明天皇の波瀾(はらん)万丈の人生がこうある。

 皇極天皇として642年に即位し、645年の大化の改新で孝徳天皇に譲位。孝徳天皇の崩御で655年、再び斉明天皇として即位した。660年、唐・新羅の連合軍に百済が滅ぼされたことを知り、百済再興のため、朝鮮半島に援軍派遣を決定。そして、661年5月9日、「天皇、朝倉橘広庭宮に遷(うつ)り」。派兵の際に自ら赴き、朝廷を置いたのだ。だが、7月24日、病で崩御。“朝倉朝廷”はわずか2カ月半で幕を閉じた。

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 「近畿周辺以外で朝廷が置かれたのは朝倉だけ。大宰府設置の発端も朝倉を守るためだと考えられる」。九州歴史資料館の学芸調査室長は、重要性を強調する。ただ、正確な位置は「特定されてないんです」。

 須川で古い瓦を見つけた江戸時代の庄屋が須川説を唱え、福岡藩の儒学者貝原益軒が「筑前国続風土記」に書き残したのが「石碑建立」の由来。その後、発掘調査で瓦は出たが、肝心の7世紀後半の土器が出土しないという。謎、なのである。

 いずれにしても、なぜ朝倉だったのか。中大兄皇子が母の喪に服した「木(こ)の丸殿(まるでん)跡」と伝わる同市山田の恵蘇(えそ)八幡宮を訪ねると、宮司(49)が秘蔵の絵巻物を開き、ヒントをくれた。

 「30年ほど前、自衛隊員が大挙して来たことがあるんです」。朝倉に朝廷を置いた理由を調べに訪れたという隊員から聞いた話は、こうだ。「敵が博多に攻めてきても、ここなら大分方面に抜け、瀬戸内海、関西への退路が確保できる」

 なるほど。国家の統治機構が引っ越すのだから、安全な場所を選ぶのは当然だ。それにしても、この古代史の一大事が、一般に広く知られていないとは。

 幻の都-。それも悪くない。石碑から少し離れると中臣鎌足が戦勝祈願で建てた宮野神社もある。大化の改新の登場人物が歩いた土地に立ち、古の都の姿を想像すると、少し胸が高鳴った。

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