福岡藩が威信を懸けてもてなし、日韓の交流に大きな役割を果たした朝鮮通信使

 日本と韓国の交流は歴史のあけぼのの時代までさかのぼるが、江戸時代に福岡藩が多くの人やお金を注いで果たしてきた交流の役割はあまり知られていない。それは朝鮮の外交使節「朝鮮通信使」への接待であった。一団は往復時に玄界灘に浮かぶ相島(福岡県新宮町)に滞在。藩は総力を挙げて歓待し、福岡の文化人たちは交流を重ねた。

☞200年間に12回の訪日
 「通信」とは「信を通わす」という意味である。朝鮮通信使は徳川幕府の慶事や将軍の代替わりごとに訪れ、朝鮮国王の国書と徳川幕府の将軍の返書との交換が行われた。その回数は200年間に12回。朝鮮通信使は日本と朝鮮が信頼関係に基づき、平和で文化的な友好関係を結んでいた象徴といえる。当初、徳川幕府は豊臣秀吉の朝鮮出兵で断絶していた国交の回復を望んでおり、その際に日本に連行された5万人もの捕虜の帰国を交渉したいという朝鮮側の事情もあった。
 とはいえ、通信使の一団は政治家・軍人ばかりでなく、学者・医者・画家・音楽家なども参加し、日本の文人などと交流が盛んに行われたのも大きな特徴である。その他、朝鮮からすれば日本の実情の偵察、日本にとっては対馬藩を仲立ちとする貿易の活性化、清朝の情報の入手など、それぞれの目的は多元的であった。
 通信使一行は毎回300~500人の人数で、首都・漢陽(現在のソウル)を出発。釜山から十数隻の船団を組み対馬・壱岐・相島を経由し瀬戸内海を航海し、大阪から陸路で江戸へ。日本往復の期間は6~8カ月、時には1年近くにも及ぶ長だった。徳川幕府は鎖国体制の中で数少ない外国からの客として通信使に大歓迎陣を敷き、旗本クラスを「御馳走奉行」に任命し沿道の各藩には最大限の供応を指示。毎回日本側の費用は100万両、動員された人足33万人、馬7万5千頭にも上ったといわれる。
☞準備だけで多大な労力と費用
 通信使一行を迎える福岡藩は52万石の威信に懸けて可能な限りの接待に努力した。...

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