才能を努力で磨いた一本道 古賀稔彦さん死去

 現役時代、佐賀県北茂安町(現みやき町)の実家近くにある千栗(ちりく)八幡宮に案内された。古賀稔彦さんは146段の石段を仰ぎ見て「ここが私の原点です」。体が弱かった小学生の時に駆け上がり、駆け下りては夢を広げた。2歳上の兄を追い、小学校卒業を機に親元を離れ、覚悟を胸に東京の柔道私塾「講道学舎」(現在閉鎖)へ進むまで毎朝、続けた。上り口には「栄光への石段」の碑が立つ。

 

 「平成の三四郎」の伝家の宝刀、一本背負い投げ。五輪と世界選手権の頂点、体重無差別の全日本選手権準優勝へ導いた、切れ味鋭い天才肌の技ながら「天才」と言われるのを嫌った。

 「天才は、天が皆に等しく与えた才能のこと」。その才能と出合う努力を、石段のように一段一段、積み重ねる信念と自負を伝えられた。鮮やかな一本勝ち、明るく豪快な立ち居振る舞いから想像できない努力家の素顔を見せてもらった。

 「柔道は私の教科書。絶対に諦めないという教訓を教えてくれ、ページをめくるたびに発見がある-」。よく聞かされた言葉だ。教科書の節目節目に登場した五輪。初出場で期待された1988年のソウルは3回戦敗退。92年のバルセロナは左膝の重傷を乗り越え、金メダルを掲げた。96年のアトランタ決勝はポイントでリードしていた終盤に心の弱さをのぞかせ、守勢に回って逆転負けした。

 「その全てが後輩たちにとって教科書だ」と引退後に話すと、笑顔が返ってきた。五輪5大会連続メダルの谷亮子さんは中学時代から合宿や大会で、努力と積み重ねの大切さを教わった。「言葉の重みが違う。早く知ることができたのは大きかった」と感謝する。指導陣に加わった女子代表での説諭や柔道教室での講話、講演でも「自分で望む努力」が主なテーマだった。

 代表最終選考会として福岡市で開かれる全日本選抜体重別選手権(西日本新聞社など共催)は五輪開催年、ベテランの引退の場となることが多い。古賀さんも初戦敗退でシドニー五輪代表を逃した2000年の福岡が最後の試合となった。

 組み合わせは当時、くじ引きで決め、抽選会を取材する記者も第三者としてくじを引いた。古賀さんの初戦が、分のあまりよくない相手に決まったのは、私が順番で引いたくじだった。不世出のスターの引退を早めたかもしれないという自責の念が今もある。

 闘病中も「諦めない」と、激励に応えていた古賀さんの「教科書」は53歳で終章を迎えてしまった。まだまだ続きが読みたかった。 (手島基)

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