韓国・済州島「アカ狩り」の悲劇 米軍政下、3万人無差別虐殺 

 菜の花が咲き競う韓国南西部のリゾート地・済州島の春には、血に塗られた歴史がある。米軍政下の1948年4月3日、朝鮮半島の統一を訴える左派勢力の武装蜂起に端を発した「済州島4・3事件」。54年9月まで当局は共産主義者を一掃するため、無関係の島民を含む約3万人を虐殺。反共を旗印にした軍事独裁政権も「事件は共産主義者の暴動」と烙印(らくいん)を押したため、遺族や関係者は長く口にすることさえ許されず、なお不明点が多い。被害の実相に触れようと事件にゆかりのある人々を訪ねた。 (済州島で、池田郷)

■消息不明73年

 「ソウルの刑務所に収容された父や伯父の消息は、事件後73年の今も分からない」。済州4・3犠牲者遺族会の金正勲(キムジョンフン)副会長(75)は伏し目がちに語る。

 当時の朝鮮半島は北緯38度以北をソ連、以南を米国が分割統治していた。米軍政が48年3月、南朝鮮単独での総選挙を5月に実施することを決めると、共産主義政党の南朝鮮労働党済州島委員会は「南北分断を決定づける」と反発。翌4月に武装蜂起した。

 島では単独選挙を成功させたい米軍政の意向を受けて、共産主義者を摘発する「アカ狩り」が激烈を極めた。韓国の初代大統領となる李承晩(イスンマン)政権は大規模な取り締まりのため島外から軍や警察のほか、北朝鮮を追われた右翼団体「西北青年会」の若者らを島に送り込んだ。当局側は姿を隠した関係者をあぶり出すように集落を焼き払い、無関係の高齢者や母子の虐殺、性暴力に手を染めた。

 金さんが3歳だった48年12月、事件に無関係の父が拘束された。父は形だけの軍事裁判にかけられて懲役20年の実刑を言い渡された。翌年に伯父も捕まり、無期懲役判決を受けた。全国の刑務所で、事件に関連したとして軍事裁判を受けた約2500人の服役者が収容されたという。

 東西冷戦を背景にした事件は、南北分断を決定的にする朝鮮戦争(50~53年)の呼び水にもなった。服役者は韓国に侵攻した北朝鮮軍の捕虜になったり、殺されたりしたとされるが、多くは消息不明だ。

 「朝鮮戦争休戦後も警察などが島民を監視した。誰かが『4・3』と口にするだけで捕まり、殴られた。長く家族の中でも話題にできなかった」(金さん)。

 空気が変わったのは、革新系の金大中(キムデジュン)政権が2000年に「4・3真相究明特別法」を制定してからだ。済州島は革新系政党の地盤の一つ。盧武鉉(ノムヒョン)、文在寅(ムンジェイン)両政権も事件の真相解明に取り組んだ。

 当時の軍事裁判について済州地裁は今年3月、金さんの父や伯父ら335人全員に無罪を言い渡した。金さんは「名誉回復に時間を要したが、ようやく肩の荷が下りた」と話す。

■確執抱え死別

 島内で日本風のラーメン店を営む姜昌斗(カンチャンドゥ)さん(76)も、4・3事件に人生を翻弄(ほんろう)された一人だ。

 姜さんの両親は第2次世界大戦中、日本で暮らしていた。1944年に故郷の済州島にいた祖父が体調を崩し、姜さんを身ごもっていた母は看病のため島へ帰った。だが、45年に終戦を迎えて母は日本に戻れなくなり、島で生まれた姜さんも父と生き別れになった。

 戦後の島は深刻な食糧難に陥った。母は乳飲み子の姜さんを育てるため島の男性と再婚。その男性もほどなく事件の犠牲になった。姜さんは12歳の時、実父を頼ろうと木造の密航船で日本を目指したが摘発され、長崎県大村市にある法務省の施設に収容された。

 韓国政府が密航者の強制送還の受け入れを拒んだことから、姜さんは大阪にいた父に引き取られた。父は北朝鮮と関係が深い在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)関係の仕事をしており、姜さんは朝鮮学校に通った。

 事件以降、難を逃れるため済州島を逃れ、日本に渡った人たちが少なくなかった。在日朝鮮人として大阪市などでコリアタウンを形成し、今に至る。

 関西で新聞配達やナイトクラブ従業員などの仕事を経て、横浜や仙台で料理人として成功した姜さん。だが、再び家族を引き裂かれる運命が待ち受けていた。朝鮮籍から韓国籍への変更を望んだ姜さんと、北朝鮮の体制を支持する父との確執だった。

 姜さんは悩んだ末、80年代後半に韓国籍を取得した。年を重ねると、ますます郷愁が募った。「最後は島で死にたい」。島に戻り、2004年にはラーメン店を構えたが、父は最後まで反対した。親子のわだかまりが解消しないまま父が他界したのが、今も心残りだ。

■拷問も発禁も

 「公権力がひた隠しにしてきた事件の歴史を闇に葬れば、作家として自分の存在はうそになるとの思いに至った」。島出身の作家、玄基栄(ヒョンキヨン)さん(80)は軍事独裁の朴正熙(パクチョンヒ)政権下の1978年、韓国で初めて4・3事件をテーマにした小説「順伊(スニ)おばさん」を発表した。

 「アカ」のぬれぎぬを着せられて無念の死を遂げた島民たちの苦悩を描いた作品だった。反共を掲げる朴政権は、共産主義者の摘発という大義を揺さぶりかねない小説を警戒したとみられる。玄さんは拘束され、激しい拷問を受けた。小説も80年、発売禁止に。玄さんによると、ようやく書店に並べられるようになったのは、87年の民主化を経て90年代半ばになってからだったという。

 朝鮮王朝時代、済州島は権力闘争に敗れた支配階級たちの流刑地だった。日本統治時代の大戦末期は、旧日本軍が島に地下要塞(ようさい)を築くなど米軍との決戦に備えて軍事拠点化した。そして4・3事件では「アカい島」のレッテルを貼られ、島民の約1割が犠牲になった。

 当時、済州島以外の各地でも南北分断を案じる左派による南朝鮮単独選挙の反対運動が起きていた。だが、済州島ほどの激しい弾圧を受けた地域はなかった。朝鮮半島有数の美しい島が捨て石のように扱われたのは、韓国本土の人々にあるという島への根深い差別意識と無縁でないのだろう。

 事件から70年目の2018年4月、韓国最高峰の漢拏山(ハルラサン)(1947メートル)のふもとにある4・3平和公園で犠牲者追悼式が営まれた。「犠牲者の悲しい魂は今、春の野原に黄色い菜の花として群れをなして咲いている。3万という莫大(ばくだい)な死は私たちに『人間とはいったい何で、国家とはいったい何であるか』を深く考えさせる」。玄さんは追悼の辞でこう語りかけた。

 350人が一度に虐殺される事件最大の悲劇に見舞われた済州市北村の4・3記念館には、玄さんの小説をモチーフにしたパステル画がある。頭に銃撃を受けて息絶えた母の亡きがらにすがって乳房を吸う幼子の姿が、民族史に刻まれた悲劇を今に伝える。

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