【東京五輪と感染症】 平野啓一郎さん

◆中止して対策に全力を

 五輪の放送権を持つアメリカのNBCが、聖火リレーを痛烈に批判したことが話題となっている。

 「新型コロナ・ウイルスのパンデミックの最中、聖火リレーは、五輪の虚飾の祭壇上で、公衆衛生を犠牲にする危険を冒している。--元々これは、まさにナチスによって創設された伝統だった。」

 聖火リレーは、1936年のベルリン五輪で、ナチス政権がプロパガンダを目的に考案した演出である。NBCの批判は、この点も強調しているのだが、日本ではそれに触れない記事も目についた。報道機関としての姿勢を疑う。

 五輪とは何かと問われれば、多くの人はスポーツの祭典と答えるだろう。しかし、五輪憲章は、「オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。」と謳(うた)っており、つまりは、その道徳的目標の故に、社会的に有益だというのである。

 しかし、憲章の「人生哲学」を、本当に五輪は実現しているだろうか? そもそもそれは、五輪という巨大な大会を通じてしか実現できないのだろうか?

 現在、東京五輪の予算は、コロナによる延期費用も含めて、1兆6440億円という前代未聞の額に膨れ上がっている。開催国にとっては、五輪の成功は、繁栄と安定の誇示となろうが、実体を伴わないならば、まさに虚飾である。私は、招致段階から東京五輪に反対だったが、それは、日本には、その金と時間と労力で解決すべき問題が、他に山積しているからである。

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 そして、現在のパンデミックの直撃である。

 メディアは、五輪が中止になった場合の損失を試算するが、なぜ、それによって感染症の対策に集中した場合の利益を示さないのか? その場合の受益者が誰なのか、なぜ分析しないのか? 変異株の蔓延(まんえん)が、第4波を招く懸念の強い現在、開催の強行で、コロナの感染拡大に収拾がつかなくなった場合の損失は、どのように想定されているのか? もし五輪を去年の段階で中止し、コロナ対策に専念していたならば、どれほどの経済効果があったのか?

 そもそも、「復興五輪」という名目自体が、完全な欺瞞(ぎまん)だった。東京で五輪が開催されることが、なぜ、東北の復興の証となるのか? 五輪を通じて象徴的に被災地を応援するのと、直接支援するのと、どちらが効果的だったか?

 五輪に、「人類がコロナに打ち勝った証」などという意味づけをするのは、恐るべき軽薄さである。

 一体、いつ、「人類がコロナに打ち勝った」のか? その「人類」には、コロナの犠牲者たちも含まれているのか? コロナの克服とは、ただ、人々が感染リスクを怖れずに元の生活に復帰することではないのか? その象徴機能を、なぜ五輪が担う必要があるのか?

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 五輪開催のためにと、PCR検査を最大限、拡充するわけでもなく、感染者の追跡も不徹底であり、無症状者は放置されたままである。東京の変異株のスクリーニング検査も十分とは言えない。国内のワクチン接種は遅れに遅れ、未(いま)だに一日5万件前後だ。

 政府は、感染者数が再び増加に転じたタイミングで、自粛強要の継続以外、ほとんど「お手上げ」の状態で緊急事態宣言を解除した。野党は、共産党をはじめとして、対案を出し続けているが、耳を傾けようとはしない。

 実質を欠いた「証」を幾ら掲げても現実は良くならない。政府と東京都は、一刻も早く五輪中止の判断を下し、コロナ対策に全力を注ぐべきである。

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