「奇跡の集落」戻ったつながり 残るか移るか…対立超え

復興の音 熊本地震5年㊤

 4月のある夜、マスク姿の住民たちが新築の公民館に集まり、持ち寄った写真を並べ始めた。のどかな田園風景、婦人会の行…。古里の景色や住民の笑顔が写っていた。「これは飾りたいな」「あのとき、大変だったね」。公民館に展示する写真を和やかな雰囲気で選んでいたが、熊本地震で倒壊した家の写真を見ているうちに一人、また一人涙ぐみ始めた。

 熊本県西原村の大切畑(おおぎりはた)地区。大地震を引き起こした断層帯の一つ、布田川断層帯の真上に位置し、2016年4月16日未明に震度7の揺れに襲われた。ほとんどの住宅が全壊したが、住民が協力して生き埋めになった9人を助け出し、犠牲者を一人も出さなかったことから「奇跡の集落」と呼ばれた。

 地震前は23世帯88人が暮らし、地域の行事には全員が参加した。地震直後には助け合い窮地を乗り切ったが、1カ月ほどすると、大きな問題が浮上した。活断層の上に住み続けるのか。小さな集落は「残留派」と「移転派」に二分された。

   ■    □

 地区内で住宅再建を図る残留派と、国の「防災集団移転促進事業」を活用しようとする移転派。集団移転には「10戸以上」の要件があったため、決めかねている人の「引き抜き合戦」が始まった。住民同士が疑心暗鬼になった。

 このままでは、コミュニティーが崩壊してしまう。当時区長だった大谷幸一さん(55)は、ある日の寄り合いで呼び掛けた。「残るか、移るか。それぞれの家で決めたことを互いに尊重しよう」。一人一人に思いを話してもらった。

 助言したのは佐々木康彦さん(42)。04年の新潟県中越地震で被災した同県山古志村(現長岡市)で村民の集団移転に関わり、西原村の復興支援のため、公益財団法人から村役場に派遣されていた。「大切なのは『移転か残留か』よりも、その理由を聞くこと」。互いの事情に耳を傾け、理解を促したことが、亀裂が深まるのを防いだ。

 山口誠一さん(47)は、小学校に近い別の地区に移る決意を吐露した。自宅の片付けに戻るたび、幼い娘2人がおびえる姿に胸を痛めていた。「もう、ここには住めない」

 この日を境に、言い争いは減り、地区内の不協和音は小さくなっていった。

   □    ■

 大切畑地区は17年2月、住民の総意として集団移転はしないことを決定。活断層を避け宅地を復旧することや地区外への移転に伴う財政的な支援をするよう村に要望した。

 全世帯のうち半数が他地区や村外に移り、半数が残った。宅地造成工事を終えた地区には、真新しい家が並ぶ。一方、地区を離れても区費を払い続ける人がいるなど付き合いは続く。

 別の地区での生活再建を選んだ山口さんは今も、大切畑の消防団に所属する。「やはり、大切畑がふるさと。ずっと関わっていきたい」。地区の寄り合いにも積極的に顔を出す。写真を選んだ公民館での寄り合いにも出席。その日は最後、大切畑への思いを模造紙にみんなで寄せ書きした。ペンを取り、何を書くか考えあぐねていると、数人が冗談交じりに声を掛けた。

 「『大切畑に戻りたい』って書いたらいいよ」 (松本紗菜子)

   ◇    ◇

 熊本地震から5年。被災地の復旧はほぼ終わり、仮設住宅など仮住まいを余儀なくされている被災者は3月末現在で418人とピーク時の1%を切った。では、一人一人の生活や、自治体の実情は-。「復興の音」に耳を澄ます。

 防災集団移転促進事業 災害危険区域などの住居を内陸部や高台の安全な場所に集団移転させる事業。事業主体は市町村で、土地の買い取りや移転先の宅地造成、被災者の住宅建築に対する助成を行うが、費用の大部分は国が負担する。九州では1991年の雲仙・普賢岳噴火災害で、長崎県島原市で実施。熊本地震では熊本県西原村や南阿蘇村で検討されたが、活用はされなかった。

関連記事

熊本県の天気予報

PR

熊本 アクセスランキング

PR