学生村の記憶を胸に…阿蘇の母「子離れ」の時 「やるしかない」

復興の音 熊本地震5年㊦

 午前4時。山と峡谷に囲まれた熊本県南阿蘇村の黒川地区で、1棟のプレハブに明かりがともる。弁当店「わかば」の市原よし江さん(62)が仕込みを始める時間だ。ラジオニュースを流し、作る弁当は毎日50個。開店の午前10時まで手を休める暇もない。

 オープンから3年。人気は唐揚げ弁当390円だ。ボランティアや復旧工事関係者への「サンキュー」の思いを込め、低価格を守ってきたが、5月からは450円に値上げする。「生きていかなきゃいけないからね」。悩んだ末の決断だ。

   ■    □

 地区は50年前、阿蘇大橋の開通を契機に発展。阿蘇観光の「玄関口」となり、東海大の阿蘇キャンパスも開校。約800人の学生が暮らす「学生村」は下宿やアパートが増え、地震前には68棟が立ち並んだ。

 市原さんの弁当の原点も下宿の味。30年前から下宿「わかば荘」を営んできた「阿蘇の母」の一人だ。村内の赤牛農家で働く元下宿生の林風笑(かざえ)さん(24)は「おばちゃんのレシピで作った唐揚げは、学園祭で人気だった」と振り返る。

 その学生村を2016年4月16日未明、激震が襲った。村の最大震度は6強。市原さんの自宅も、周囲の家々もほぼ全壊した。市原さん家族や下宿生たちは無事だったが、地区では学生ら4人が犠牲に。阿蘇大橋は崩落し、地区は「陸の孤島」となった。

 学生は親元へ。住民は避難所から仮設住宅へ。「怖くて戻れない」。一時は消滅の危機にひんした地区は今、世帯数が45から34に減りはしたものの、新築の家が目立つようになった。一方、下宿やアパートは3月時点で14棟に激減。下宿やアパート経営という「基幹産業」を失った。

 下宿で地震に遭った林さんも今夏、青年海外協力隊への夢に向けて故郷の大阪に帰る。学生村の暮らしを知る最後の1人が巣立つ。

   □    ■

 「命と店が助かった。ならば、やるしかない」。地震当時、全壊の自宅から救助された橋本としえさん(65)は、被災の爪痕が生々しく残る16年12月、食堂「おふくろ亭」を再開。当初は避難所から店に通い、転居する学生を見送り、復旧工事の作業員の胃袋を支えてきた。

 地震で自宅やローンが残っていた学生アパートを失い、目の前が真っ暗になったが、現実と向き合うのも早かった。「悲しい顔では生きていけませんから」

 明るい兆しもある。3月の新阿蘇大橋開通で観光客が増えてきた。本震から丸5年の16日昼、おふくろ亭のカウンターは常連と観光客で埋まっていた。わかばの市原さんも「日替わり弁当は品数を増やそうかな」と観光客を意識する。

 「家が建ち、道路もでき、橋も架かった。これが復興なんじゃろ」と古庄幸男区長(66)。気になるのは、被災以来5年ぶりに地区で始まる田植えの行方だ。聞こえるのは水路を流れる水の音。若者たちのにぎやかな声は記憶の中に。学生村は「子離れ」の時を迎えている。 (古川努)

 阿蘇大橋と東海大 1971年の阿蘇大橋開通の2年後、東海大(本部・東京)は南阿蘇村に阿蘇キャンパスを開設した。熊本地震で校舎が被災し、直下に断層の存在が判明。現地再建は断念し、県は昨年8月、講義棟や地面に表出した断層を「震災ミュージアム」として公開を始めた。今月12日には県、村、東海大などが食と農の研究拠点を整備する「ザ・ファーム阿蘇」構想を発表した。

関連記事

熊本県の天気予報

PR

熊本 アクセスランキング

PR