博多のまちを繁栄させ、おおらかな気風を育てた太閤秀吉のまちづくり

【博学博多】

 次々に新しい開発が進み、ますます魅力が膨らんでいる福岡・博多。もともとこの地は、人とモノとお金が行き交うクロスポイント。その歴史の中でも現在の繁栄につながる基盤を確立した要因の一つといえるのが、1586年に豊臣秀吉が命じ進められた、博多を代表する祭りである博多祇園山笠の各流(ながれ)の元になっていることでも知られる「太閤町割り」だ。商都・博多の礎となった秀吉のまちづくりに迫ってみよう。

博多町割り図

☞精密で機能的なまちづくり
 見渡す限りの焼け野原。それが16世紀末の博多の姿だった。というのも博多は大友、毛利、島津氏たちの争奪戦に巻き込まれたからだ。焼け出された博多の町民たちの多くは博多近郊に避難しており、博多はゴーストタウンそのものだった。1587(天正15)年6月7日、このがれきに埋もれた再起不能のまちに現れた救世主が、島津勢を討って天下を取った太閤秀吉...

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