博多湾の五つの浦を母港に、日本の海運業をリードした大船群があった

残島(能古島)の廻船・虎徳丸の船額。額の長さは船の帆柱の径とほぼ等しいといわれる

【博学博多】

 奈良・平安時代には湾内から遣唐船が出港し、さらに平清盛が開いたという袖の湊など、いにしえから海に開かれていた博多。外国との貿易が盛んで鴻臚館に代表されるように人・モノ・文化の交流を重ねながらまちは発展してきた。港とともに歩んできた博多だが、江戸時代に博多湾西部の五つの浦を母港とした「五カ浦廻船」が、日本の海運業を担っていたことを知る人はそう多くない。

☞最盛期には大船60隻が就航
 今津、浜崎、宮浦、唐泊、残島。江戸時代を通じて福岡藩の海運事業はこの博多湾西部の五つの浦が担当しており、これを五カ浦廻船と呼んだ。五カ浦廻船は、藩の米の運搬を中心にさまざまな物産を大坂や江戸に回送する他、諸国の物産も扱って各地に運搬した。
 当時、藩は500石以上を廻船、500石未満を商船と呼んで区別していたが、商船の平均が50石のころ、五カ浦廻船の規模はなんと平均1400〜1500石という大船ぞろいだった。これに大きな帆を張って走るのだから、それはかなり壮大な光景だったはずだ。
 当時の航路は東回りと西回りの2通り。東回りは日本海から津軽海峡を通って太平洋を南下し江戸に向かう航路、西回りは日本海から関門海峡を抜けて瀬戸内に入り大坂に向かう航路で、いずれの航路も筑前の五カ浦廻船が幅を利かせていた。能古島の廻船問屋に「筑前船が就航しない年は東廻りはぱったり途絶える」という記録が残っていることからも、...

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