幻となったヒロシマ駆ける「聖火ランナー・バッハ」

東京ウオッチ

 7月23日の東京五輪開幕まで、あと2カ月に迫った。新型コロナウイルス「第4波」の中、全国を巡っている聖火リレーは17、18の両日、緊急事態宣言が発出された広島県入り。公道での走行は中止となったが、17日は広島市の平和記念公園において無観客の点火式を開き、ランナーたちがトーチの炎を次々に移していく「トーチキス」で聖火をつないだ。本来ならそこに、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長の雄姿もあるはずだった。

 バッハ氏は、昨年11月以来となる訪日を希望し、IOCによると、その目的は東京五輪に向けて「日本国民に支援と理解を伝え、連帯を示すこと」にあった。具体的なスケジュール案としては、5月17日に広島市の聖火リレー式典に出席し、18日には東京で菅義偉首相と会談を行う方向で検討が進められていた。しかし、感染拡大を受けて延期に。IOCは、バッハ氏の来日計画について「緊急事態宣言が解除された時に協議できればいい」とし、6月以降に再調整する意向を示している。

平和のともしびと、聖火を一つにしましょう」

 当のバッハ氏。17日の広島市の点火式にメッセージを寄せた。少し長くなるが一部引用してみたい。

「広島の皆さま、日本の皆さまへ。本日、広島の平和のともしびとオリンピックの聖火が平和への普遍的な願いを通じて、一つの炎になりました。私は自らが本日のセレブレーションに参加することを望んでおりましたが、困難な状況の中、かなえることができませんでした。しかし、この特別な行事の精神を通して、私は皆さまとともにあります。この場に記憶されている、お亡くなりになった全ての方に哀悼の意を表しますとともに、広島を平和の都市に築き上げた不屈の努力に敬意を表したいと思います」

「皆さんとわれわれ国際オリンピック委員会、IOCを共に結びつけるものは、まさに平和へのコミットメントです。この平和の街、広島にオリンピック聖火が到着する瞬間以上に、われわれの平和への普遍的な願いに参加できるよりよい瞬間と場所があるでしょうか。ここ、広島からオリンピックの聖火は、この力強いメッセージを東京へと運び、7月23日、東京から全世界へと届けられます。われわれで、世界平和への願いが込められた、広島の平和のともしびと、オリンピックの聖火を一つにしましょう」


広島市の平和記念公園。手前は原爆ドーム

「コロナ禍屈しない大会」はノーベル平和賞への一歩?

 一読していただければ、被爆地であり、世界に平和の尊さと戦争の愚かさを発信している都市・ヒロシマの地を踏むことができなかった無念さが、濃くにじんでいることがお分かりになるだろう。

 実は、大会関係者の間では昨春の五輪延期前から、「バッハ氏は広島、とりわけ平和記念公園近郊で、自ら聖火ランナーを務めたいと熱望している」説が、まことしやかにささやかれていた。さらには、広島県の17日の聖火ランナーリストにはバッハ氏を指す“特別シークレット(秘密)枠”があった、との臆測も―。今となっては検証するすべを持たないが、さもありなんとも感じてしまう。なぜなら、バッハ氏のヒロシマ、平和への強い思いの背景には、ノーベル平和賞への野心もあるのでは、と言われているからだ。

 2018年冬の平昌五輪で、バッハ氏は聖火ランナーを務めた。開幕式典では、当時、融和ムードが高まった韓国と北朝鮮の両国選手団が一緒に入場行進する光景が全世界に発信され、女子アイスホッケー競技では史上初めて南北合同チームが編成されたこともあり、バッハ氏はノーベル平和賞の候補として名前が挙がるようになった。


平昌冬季五輪の閉会式で、スピードスケート女子の小平奈緒(右から3人目)らとポーズをとるバッハ会長(左から5人目)(共同)

 弁舌爽やかな弁護士であり、何より元金メダリストのオリンピアン。今年3月のIOC総会で会長に再任され、25年まで4年間の最終任期も手にしたばかりだ。今回、広島からメッセージを発することはできなかったものの、人類が新型コロナ禍に屈せず、安全安心に平和の祭典・東京五輪を何とか実現することが仮にかなえば、究極の栄誉が一歩近づいてくるのかもしれない。だがそう書くのすらはばかられるほど、五里霧中のうつしである。

立ち居振る舞いには人間味とリーダーシップ

 5月中旬の共同通信の世論調査によると、東京五輪・パラリンピックの中止を求める人の割合は、実に59・7%に上る。無観客開催は25・2%、観客数を制限しての開催は12・6%。五輪がウイルス感染状況を極端に悪化させ、医療制度の破綻という悪夢を招来してしまうのでは、との国民の不安はとても深い。

 日本政府と歩調を合わせ、五輪を不安視する国内外の声を一蹴し続けてきたバッハ氏への風当たりも強まってきた。日本政府に対し、五輪中止を促した米有力紙ワシントン・ポスト(電子版)のコラムは、バッハ氏を「ぼったくり男爵」と酷評。いわく、新型コロナ禍にもかかわらず五輪開催を強要する「地方行脚で食料を食い尽くす王族」であり、「開催国を食い物にする悪癖がある」と容赦ない。IOCトップがまとう威厳は残念ながら、かなり傷んでしまったように思える。

 昨年11月。来日時の記者会見では「私は日本に来て24時間足らずで、日本語がまだ上手じゃないから、ゆっくり話してくれると助かるよ」と、軽妙しゃだつなユーモアで記者たちを笑いに巻き込んだバッハ氏(来日時の様子はこちら。動画あり)。今年、大会組織委員会の橋本聖子会長らと5者協議に臨んだ際も最初、オンライン接続がうまくいかず「われわれを分断しようとしている者がいるな?」。常に場を和ませ、皆を勇気づけて士気を高めようと心を砕き、その立ち居振る舞いに人間味とリーダーシップを感じさせる人物であることも、また事実なのだが…。

開会式を迎えることはできるのか

 “主役”不在の広島の聖火リレーは18日、静かに終わる。

 五輪に先駆けての再来日というバッハ氏の希望が達せられ、その熱意と各国の国民、選手たちの思いが一つに重なり、開会式を迎えることは果たしてできるのだろうか。昨年からずっと東京大会を追い続けてきた私の心のともしびも今、頼りなげに心細げに揺らめいている。

(下村ゆかり)

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