「定点」でカメラマン遺族が抱いた罪悪感 島原に触れ解かれた心

普賢の麓で 大火砕流30年㊤

 赤くさび付き、ねじ曲がった鉄の塊を雨が打つ。辛うじて原形をとどめるホイール部分が、車だったことを伝える。

 1991年6月3日、長崎県雲仙・普賢岳を駆け下った火砕流が辺りを焼き尽くし、多くの人や車を巻き込んだ。それから30年。この春、岩や土砂の中から報道車両とチャーターされたタクシーが姿を現した。

 犠牲者遺族の矢内(やない)美春さん(31)=東京都在住=は5月15日、この地に立ち、手を合わせた。孤立感が和らいだ気がした。

 普賢岳を正面に見据えるこの場所は「定点」と呼ばれる。多くの報道カメラマンが陣取り、火砕流にレンズを向けた。矢内さんの父、テレビカメラマンの万喜男さん=当時(31)=もその一人。あの日、報道関係者や消防団員、警察官、タクシー運転手らとともに火砕流にのみ込まれた。当時1歳。父の記憶はない。

 10代になって母に連れられて島原、定点を訪れるようになった。同じように大切な家族を失った遺族同士でも、報道関係は立場が異なることを知る。「負い目があり、いつも行きづらいと思っていた」。罪悪感があった。

 矢内さんは10代の頃、父について考えるのを避けてきた。多くの犠牲を出した火砕流被害の背景にあるものを知ったからだ。

 当時、取材現場の定点を含む一帯は「避難勧告地域」。噴火活動の活発化に伴い地元島原市が報道陣に出した退去要請に、「強制力がない」と多くが従わなかった。その時、一部報道機関が避難で留守になった民家の電源や電話を無断で使用。消防団が監視のため避難勧告地域に戻ったところ、火砕流が押し寄せた。

 「マスコミさえいなければ…」。消防団員が巻き込まれたことへの地元の怒り。矢内さんは怖かった。「住民にどう思われているのか。知ることも、島原に行くことも」

 20代になる頃、1人で島原へ向かった。「自分の目で確かめたい」。普賢岳を訪れ、地元の住民や父が搬送された病院で治療に当たった医師らに話を聞いた。父の遺品のスチルカメラで写真に収めた。

 背を押してくれたのは、雲仙岳災害記念館で目にしたドキュメンタリー映像。報道関係とそれ以外の遺族間に心の溝があることを知る記念館関係者が「それぞれ(の立場)にそれぞれの思いがあるのは間違いない」と語っていた。心が解かれた。

 時間の経過とともに、地元にも変化が生じ始める。「定点が、埋もれた状態のままでいいのか」。ボランティアで火山灰や岩の撤去、被災者支援に尽くした雲仙市の造園業宮本秀利さん(71)の考えに、地元の安中(あんなか)地区町内会連絡協議会も共鳴。30年前の出来事を振り返る中で「消防団員も報道機関も、それぞれ使命感を持っていた」との声が上がり、一部の消防団遺族も定点の整備に賛同した。

 割り切れない消防団遺族は少なくない。地域を守ろうとしていた肉親を失った苦しみ、喪失感は尽きない。「(定点には)絶対に行かない」「行ったことはないし、今後も行くかどうか分からない」。容易には埋まらない溝が横たわる。

 それでも宮本さんらは定点が、さまざまな立場の人が集う「接点」になってほしい、と願う。

 矢内さんは今年、父が亡くなった年齢と同じ31歳になった。今回初めて父のカメラで捉えた写真12点を記念館の企画展で披露している。心を解くきっかけをつくった人物、現在の館長は「何かをつかみたいという気持ちが表れている」と今も見守る。

 矢内さんは企画展に際して気持ちの変化をこう表現した。「ようやく体験したことや気持ちを話せるようになった」。3日も島原を訪れる。父をはじめ、亡くなったすべての人に祈りをささげるつもりだ。

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 長崎県雲仙・普賢岳の大火砕流から3日で30年。麓で続く追悼や継承の営み、関わる人々の思いを伝える。

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