大火砕流を「過去」にしない…記憶の継承を花に託す消防団OB

 雲仙・普賢岳の麓、北上木場農業研修所の跡地。3日朝、かっぱ姿の喜多淳一さん(68)は次々と鉢植えの花を並べた。現役の消防団員だった30年前も、雨が降っていた。

 あの日、約500メートル離れた消防分団の詰め所で仮眠からたたき起こされ、研修所方面へ。空は暗く、地面は降灰で真っ黒だった。

 顔見知りの隣の分団の5、6人がふらつきながら下ってくる。火砕流の熱風で顔が腫れ上がっていた。

 「大丈夫か、大丈夫かっ」「うん」

 分団車両で病院に運ぶ途中、何度も励ましたが、数週間のうちに次々と亡くなった。消防団員の犠牲は12人に上る。

 つい1時間ほど前に研修所に立ち寄り、噴石がいつもより激しく飛ぶのを確かめて、下った直後の大火砕流。「巻き込まれていたかもしれない…」

 数年前から花を並べるのは弔いのため。今年の赤いペチュニアは「惨事や犠牲者を忘れないで」との思いを込め、初めて地元の小中学校で子どもたちに育ててもらった。その小学校ではこの日、児童がこれまで学んだ噴火災害の感想を発表。「命を大切にしたい」「ヘルメットをかぶっての生活は大変だったと思う」。素直な声が上がった。

      ◇

 最前線を踏んだ島原市消防団にとっても、大火砕流は「過去」になりつつある。団員約600人のうち、副団長の金子宗弘さん(60)が当時を知る最後の一人。家業は石材店。「消防殉職者の碑」の文字も、幾人かの墓石の戒名も、自身がのみで刻み込んだ。「6・3」の追悼式に限らず、碑に足を運ぶ。

 その行動の背景にあるのは「亡くなった仲間の顔が浮かび、1文字ごとに命の重さをかみしめた」という当時の悔しさ。この日、献花した孫のような世代の新入団員とはほとんど接点がなく、「災害の経験が途絶えるのではないか」とのもどかしさが募る。

      ◇

 「形のないものを、きちんと伝え残したい」。雲仙岳災害記念館で3日にあった防災シンポジウム。被災体験を伝える語り部ボランティアの長門亜矢さん(38)は発言を求められ、こう話した。

 30年前の8歳の時、1人で留守番中に大火砕流が発生。不安でパニックになりそうだった。目や耳で感じ取ったのは、湧き上がる煙、空を覆う火山灰、鳴り響くサイレンの音…。自宅は土石流で流され、避難所で過ごした。幼い頃のつらい体験を小学校などでも語るのは、将来、子どもが自らの命を守る「種」にしてほしいからだ。

 体に刻まれた感覚は消えない。それをきちんと言葉にして伝え、残したい、と思う。さまざまな立場、形での継承が続いている。

 (真弓一夫、坪井映里香、稲葉光昭)

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