大火砕流の観測最前線「危機感伝えきれなかった」

 長崎県の雲仙・普賢岳で1991年に43人の犠牲者を出した大火砕流の発生当時、最前線で観測に奔走した気鋭の研究者がいた。当時の九州大助手で現在、防災科学技術研究所火山研究推進センター(茨城県つくば市)のセンター長を務める中田節也さん(68)。専門家として住民に危険性を伝える役割にも向き合った日々を振り返ってもらった。 (聞き手は鶴加寿子)

 ―当時の活動は。

 「90年11月に普賢岳の噴火が始まり、九州大島原地震火山観測所(当時)の所長だった太田一也先生の応援要請を受け、91年3月末に米国留学から帰国した私が普賢岳に通い始めた。毎日のようにヘリで上空から観測した。5月22日や23日には、山頂の溶岩ドームからぽろぽろ落ちるものを確認した。大きなことが起きる予感はあったが、火砕流になるとは分からなかった」

 「5月24日に最初の火砕流が発生。関係機関や太田先生らと、どう公表するか話し合った。その結果、住民がパニックになる懸念から、『火砕流が発生したが小規模だった』との情報が発信された。火砕流の恐ろしさは知られていると思い込んでいたが、実際は何のことだか分からず、音の響きで『火災流』だと思った人もいた。危機感は伝わらなかった。日に日に火砕流の規模は拡大した」

 ―6月3日の大火砕流発生で犠牲者が出た。どう思ったか。

 「その日は火砕流の試料分析のため福岡市の実験室にこもっていた。新聞記者から『同僚が帰ってこない』と電話があり、被害を知った。フランスから来た火山学者の夫妻も犠牲になりショックだった。一方で避難勧告の域内にあった観測ポイント『定点』にこの学者夫妻がいたことが、報道陣が現場にとどまる安心材料になったとみられ、複雑な思いがある」

 ―専門家として普賢岳の噴火で学んだことは。

 「溶岩と火砕流の発生が同時進行で起きると分かったのは学術的に大きかった。その後、山腹からマグマが通る火道に向かって掘削し、岩石試料を採取するプロジェクトに世界で初めて成功し、火砕流の理解はさらに深まった。普賢岳で多くを学んだ」

 ―普賢岳とはその後も関わりが続いている。

 「国際火山学会の会長として2007年に島原市で国際的な学会を開くなどした。現在も日本ジオパーク委員長などとして島原を訪れる機会は数年ごとにある。一方で責任ある立場になるにつれ、火山防災の啓発への意識が強まった。当時、取材競争で危険な場所へ踏み込む報道陣を叱ったこともあるが、私たちが危険性を伝えなかったせいだ」

 ―大火砕流から30年。いま何を思うか。

 「2日に普賢岳に登り、溶岩ドームを調べた。30年前は熱を帯びていたのに、いまは一部でコケが付着し始め、鳥が種を運んだであろうツツジも咲いていた。3日に島原市で営まれた追悼式に参列したが、噴火当時を詳しくは知らなさそうな若手政治家の姿もあり、30年の月日を感じた」

 「普賢岳で今後しばらく大きな噴火があるとは思わないが、不安定なドームが小さな噴火や地震などで崩れれば危険だ。九州では桜島の大規模噴火に警戒する必要がある。普賢岳で起きたことを風化させてはならない。島原がどう災害を克服し、復興に向かっているのかを国内外に伝えるなど、今後も私ができることは手伝いたい」

関連記事

長崎県の天気予報

PR

開催中

真夏の古本まつり

  • 2021年7月18日(日) 〜 2021年8月3日(火)
  • ジュンク堂書店福岡店 2階 MARUZENギャラリー

PR