【五輪開催の非常識】 姜尚中さん

◆「引き際」歴史から学べ

 いよいよと言うべきか。今月、東京五輪の日本選手団へのワクチン接種が始まり、オーストラリア選手団も日本入りして、開催不可避の既成事実が積み重ねられつつある。国民の過半数が中止か延期に賛成の世論調査があるにもかかわらず、政府の「五輪一直線」への前のめり姿勢は変わらないままだ。

 そんな折、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長による発言が波紋を広げている。パンデミック(世界的大流行)の状況での五輪開催は普通されないはずで、あえて挙行しようとするならふさわしい目的、その「存在理由」が問われている、という主旨である。

 この発言は、常識(コモンセンス)を逸脱した向こう見ずな見立てではなく、国民の大半の思いにも合致しているはずだ。何より、感染症の専門家集団を代表する科学的なエビデンス(根拠)と確率論的な予測に裏付けられた判断である。

 だが政府、与党の反発はすさまじく、尾身会長の発言を専門家の分限をわきまえない越権行為となじる声が絶えないようだ。要するに、最後の決定権は政治家にあるのに、それを侵害する行為は許せないというわけであろうか。

 しかし、政府や担当者からはいかなる科学的な知見に基づくエビデンスも、予測される事態のリスクの大きさも、具体的な方針も示されない。しかも無観客が望ましいという専門家の意見をよそに、一部では子どもたちの動員も計画されているという報道すらある。ほとんど「非常識」としか言いようがない。

    ◆   ◆ 

 今、日本は非常識が常識を蹴散らすように国民に塗炭の苦渋を強いかねない事態に向けて突き進もうとしているのではないだろうか。「えいやっと」と鬨(とき)の声を上げながら突き進めば、何とかなると横着に構えて恥じない超楽観論は、いったいどこから来ているのか。

 吶喊(とっかん)とともに兵士が敵兵目がけて突進し、膨大な犠牲を払わざるを得なかった戦時期の無謀な戦闘を思い起こすのは、あまりにも牽強(けんきょう)付会だろうか。ノモンハン事件(1939年)やインパール作戦(1944年)など、その事例には事欠かないはずだ。

 作家の司馬遼太郎さんは、事あるごとにノモンハン事件の教訓を引き合いに出し、合理的な精神を無視した行き過ぎた精神主義の愚劣さを告発している。司馬さんが生きていれば、きっと同じことを言うに違いない。

 教訓は、引き際が重要であるということである。タイミングを誤らず、引く時は引く、止める時は止める。その決断こそ政治家の役割であり、使命ではないのか。ノモンハンでもインパールでも、惨禍をもたらした首脳や参謀たちは決断にふさわしい責任を取ったと言えるだろうか。

    ◆   ◆ 

 コモンセンスに反してでも、新たな変異株の発生や拡散のリスクを見積もっても五輪挙行の意義があるとするならば、それは何なのか。またそのようなリスクが現実になった場合、誰が責任をまっとうするのか。首相は明確に自分の言葉で国民に語りかけるべきではないか。

 それでも、どうしても五輪開催に執着するのなら、2024年夏の大会であるパリ五輪での一部東京開催の可能性を探ることも一案ではないか。戦時にも等しい新型コロナウイルスのパンデミックという異常事態である。

 国連やWHO(世界保健機関)を味方に付けてIOC(国際オリンピック委員会)と交渉してみるのも、決して荒唐無稽な話ではないはずだ。その時こそ、初めてコロナに打ち勝った五輪だと誇れるのではないか。

 【略歴】1950年、熊本市生まれ。早稲田大大学院博士課程修了後、ドイツ留学。国際基督教大准教授、東大大学院情報学環教授、聖学院大学長など歴任。2021年4月から鎮西学院大学学長。専攻は政治学、政治思想史。著作に「母の教え」など。

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