【復刻】2千人が死傷し、1万4千戸が燃えた「あの日」

福岡大空襲を報じ直す

 もし、あのとき、あるべき報道ができていれば、どんな新聞ができたのだろうか。1945年6月に2千人以上の死傷者を出した福岡大空襲。西日本新聞は戦後70年の2015年、それまでに明らかになった事実を基として、空襲時の出来事を現在の新聞スタイルで編集しました。国家による言論統制の中でつくられた全2ページの当時の紙面は「重要施設に被害なし」と繰り返し、多くの証言にある「地獄」のような惨状を報じてはいません。反省の思いを込めて今の常識と視点で「あの日」の惨状を伝え直し、教訓としたいと考えました。4ページの特集紙面のうち、一部を復刻してお伝えします。記事には、子どもや若者たちの言葉もつづられています。空襲の体験をされた方々にあらためて取材し、当時の年齢で登場していただきました。

深夜、B29爆撃機221機が焼夷弾

 19日午後11時すぎ、福岡市上空に米軍のB29爆撃機221機が飛来、福岡市の博多部や博多港沿いの都心部を中心に焼夷(しょうい)弾を投下し、市街地は広範囲にわたって炎上した。空襲は20日未明まで続き、少なくとも2千人が死傷・行方不明、1万4千戸超が焼失した。被害の全容把握は進んでおらず、犠牲者数や焼失家屋はさらに増えるとみられる。

 西部軍管区司令部は19日午後10時半すぎ、市内に警戒警報を発令。ラジオは「有明海方面に敵機編隊侵入。長崎、大牟田方面警戒を要す」と伝えた。同10時55分、空襲警報に変わった。

 飛来したのは、米軍第20空軍第21爆撃兵団に所属する第73、第313両航空団のB29爆撃機。同日午後4時ごろ、九州の南約2500キロのマリアナ諸島にあるサイパン島とテニアン島にある基地をそれぞれ離陸、夜にかけ脊振山を越えて福岡市上空に到達し、同11時10分ごろから空襲を始めた。

 米機は高度2500メートル前後から、東西は御笠川から樋井川までの約5キロ、南北は博多港の海岸線から大濠公園までの約1・8キロに焼夷弾を集中的に投下、人口が密集している博多部をはじめ、博多湾岸の地域で大火災が発生した。使用された焼夷弾は小型の焼夷弾を多数束ねたタイプと、着弾と同時に発火するタイプの2種類で、20日午前0時50分ごろまで、合計1525トンが投下された。

九大医学部西南方向に降りそそぐ焼夷弾の雨

 日本軍は探照灯で米機の一部をとらえ、高射砲で応戦したが、砲弾は米機の高度に届かず、1機も撃墜することができなかった。福岡市街はほぼ無防備の状態で空襲を受け続けた。

 都心部を中心に20日未明にかけて火勢は強まった。西部軍管区司令部は同日午前1時53分、空襲警報を解除したがその後も市街地は燃え続け、同6時半ごろに鎮圧状態となった。

 空襲による死者は20日正午現在、868人、行方不明者107人。負傷者は1048人。約1万4500戸が全焼し、焼け出された人は約5万8千人に達した。

 市中心部は8割の建物が被災。一家全員が死亡したり、地下に掘られた防空壕(ごう)で亡くなったりしたケースも多数あり、犠牲者数や被害家屋は大幅に増えるとみられる。米軍は福岡市周辺の一部地域にも焼夷弾を投下。早良郡入部村、内野村、田隈村、糸島郡雷山村、筑紫郡安徳村、岩戸村でも10人以上が死亡、約400戸が全焼した。

 米軍は福岡の空襲とほぼ同時間帯の19日深夜から20日未明にかけ、静岡市と愛知県豊橋市にも焼夷弾で空襲。計2300人超が死亡した。

 

電気、ガス、水道…インフラ壊滅

 19日深夜から20日未明にかけての米軍による空襲で、福岡市内では電気、ガスなどのインフラがほぼ焼損、都心部はまひ状態となった。護国神社や県立図書館が全焼するなど学校や寺社の多くが被災し、32万人が暮らす市内の生活再建のめどは立っていない。

 木造家屋が大部分を占める都心はほぼ焼け野原状態で、鉄筋コンクリートの建物だけが燃え残った。市内の道路には折れた電柱や切れた電線、焼けた家屋のがれきなどが散乱。加入電話の約8割が焼失し、電話や電力の供給も途絶えた。

 ガスも那珂川に架設した高圧パイプが焼損し、供給できなくなった。水道管も多数破損、消火活動に水を大量消費したため水圧が低下し、市郊外を中心に使用不能に陥っている。

福岡大空襲で火の海となった福岡市・旧柳橋の対岸

 博多と天神を結ぶ東中島橋と大黒橋も焼け落ち、交通が遮断された。百貨店の玉屋からも黒煙が噴き上がった。

 市内20カ所の神社が全焼、警固神社と鳥飼八幡宮は一部が焼けた。寺も20カ所以上が全半焼した。福岡郵便局は全焼、西新郵便局など計11局が燃えた。教育関連施設は女子師範学校や奈良屋国民学校、大名国民学校、簀子国民学校など少なくとも18校が被災した。旧福岡城内の陸軍歩兵第24連隊の兵舎が全焼するなど、軍関係施設の一部も被害を受けた。

 一方、博多駅はホームの一部に被弾したが、列車の運行に支障はなかった。福岡市役所や岩田屋、西日本新聞社も大きな被害を免れた。

 

炎の壁「逃げられん」63人犠牲の地下室、生死分けた裏口

 轟音(ごうおん)と閃光(せんこう)に続き、雨あられのように降る焼夷(しょうい)弾。燃えた木くずが舞い、真っ赤な炎の壁がなめるように人々に迫った。「もう逃げられん」「助けて」。19日夜、米軍機B29に急襲を受けた福博の街に、悲鳴と泣き声が上がった。多くの市民が避難した博多部の旧十五銀行地下室では63人が犠牲に。約1時間半の空襲で、市中心部など一帯は焼け野原となった。各地の小学校に遺体が次々運び込まれ、ぼうぜんと立ち尽くす家族や友人たち。大切な命と日々の暮らしは、たった一夜で奪われた。

 幼児を抱いたままの母親、壁をかきむしり息絶えた人。福岡市片土居町の旧十五銀行地下室は熱と煙に襲われた。鉄筋コンクリートの厚い壁に囲まれた「安全」なはずの地下室が“地獄”に変わった。狭い通路や倉庫で何十人もの遺体が見つかった。生死の明暗を分けたのは「裏口」の存在を知っていたか、知らなかったかだった。

 「お母さんの決断がなかったら、僕たちは死んどったかもしれん」。すすで赤黒くなった顔で、冷泉国民学校3年の藤野真一君(8)は言葉を絞り出した。

 銀行のすぐそばにある「十五ぜんざい」の長男。空襲警報を受け、母と弟の3人で地下室に入った。近隣2町の避難場所。安全だろうと評判が高く、L字形の通路は遠方からも逃れてきた人であふれていた。

一夜明けた東中洲の歓楽街は、がれきの山になっていた

 空襲が激しくなると、「ここは危ない。早く出るべきだ」という年配の男性の声が聞こえてきた。「残るべきだ」「早く出よう」。意見は割れた。地下室に何度も出入りしていた3人は、入り口とは反対にある裏口を抜け、逃げ出した。

 真っ暗闇の中で、奈良屋国民学校2年の堀川大助君(7)は「煙がどんどん広がってきた」のを感じた。藤野君と同じく通路の一角で、家族4人と身を寄せ合っていた。煙に追われるように、裏口を出た。東公園に逃げようと電車通りに向かったが、熱風に遮られた。「燃えた木の固まりが火の玉んごと飛んできた。怖くて進めんやった」

 いったん地下室に戻ったものの、中は煙が充満。慌てて離れ、近くの空き地に逃れた。「お母さんが背負っていた乳飲み子の弟は、煙ば吸って駄目でした」。唇をかんだ。

 翌20日早朝、辺りには強烈なにおいが漂っていた。木れんがでできた歩道はくすぶったまま。その腐食を防ぐために塗られたコールタールが燃えた刺激臭だった。

 地下室のそばにある額縁店の大崎きよさん(24)は、現場で手を合わせた。

 「コールタールに引火し、銀行の周囲の炎は特に激しかった。地下室から『逃げられない』と地下室にとどまらせる要因になったのでは」

 地下室の倉庫には地下足袋や軍需品の生ゴムも積み重ねてあった。熱で燃え始め、多くの人が一酸化炭素(CO)中毒で亡くなったとみられる。「この悲劇を絶対忘れてはいかん」。大崎さんは誓った。

 

「あなたは逃げなさい」3畳の防空壕に身を寄せた臨月の母は…

 「あなたは逃げなさい」。それが祖母から掛けられた最後の言葉だった。簀子国民学校1年の樋口孝輔君(6)は家族5人を失った。焼夷弾は防空壕(ごう)も直撃。簀子校区では176人が犠牲になったとみられる。

 警戒警報が聞こえた瞬間、町内会長をしていた父が外に駆けだした。「防空壕に入れ!」。家族にそう叫び、走り去った。自宅の資材置き場に、畳と土で覆った防空壕があった。祖母と臨月の母、姉と妹2人の家族計6人で、3畳ほどの空間に身を寄せ合った。

 煙が流れ込み、10分ほどで充満した。「逃げないと」。祖母の言葉にはじかれるように通りに飛び出した。ちょうど自宅を見に戻ってきた父と会えた。2人で広場の壕まで走った。

 翌20日、父と自宅の壕に戻った。入り口はつぶれ、弾をまともに食らったようだった。掘り起こすと、母と祖母の顔は真っ黒だった。大八車に5人の遺体を乗せ、同校の校庭に運んだ。

 同校6年の吉村浩一君(11)は魚屋の長男。店先に、大濠公園の水を求めて逃げてくる人が長い列をつくった。「熱い熱い」と顔をしかめる背中に、普段から店でためていたおけの水を夢中でかけた。吉村君の一家5人も大濠公園に避難。「消火訓練なんて意味がなかった。父は『兵隊は何にもならん』と怒っていた」。無念そうに話した。

 

「当たらなかったのが奇跡」大名校区2978戸の94%が燃えた

 焼け出された人たちが街にあふれ、家のあったところで立ち尽くしたり、食べられるものを探したりしていた。焦土と化した城下町・大名。焼夷弾の残骸や金属片が無数に転がり、歩くこともままならない。

 電柱に焼夷弾が突き刺さり、がれきの山はくすぶり続けていた。福岡で最も古い小学校の一つ、大名国民学校は、木造校舎が全焼、鉄筋の新校舎だけが残った。次々と運び込まれる遺体。菅野久雄君(12)は「朝になって見たら、校舎が燃えていた。これから学校はどうなるのか…」と放心したように語った。

 空襲当日、警戒警報が鳴り、兄と様子を見に屋根に上った。六本松方面で爆撃が始まり、あわてて屋根を下りた。すぐにB29の姿が近づき、焼夷弾をばらまいた。「当たらなかったのが奇跡」と声を震わせた。

 女子高等専門学校1年の伊藤照子さん(16)はラジオで警報を聞き、慌てて避難した。防火用水を頭からかぶった。途中、目の前に焼夷弾が落ちてきた。婦人会の人たちが、むしろと砂をかけて消火してくれた。「お礼を言いたいけれど、お姉さんたちは無事だったのかしら」。焼け野原を見つめた。

 大名校区は全2978戸のうち94%にあたる2800戸が焼失。死者・行方不明者は合わせて91人に上っている。

未明に気温3・4度上昇、湿度は急低下

 福岡管区気象台によると、19日深夜から20日未明にかけ、気温が3・4度上昇した一方、湿度は大幅に低下した。空襲で市内の広範囲に火災が発生した影響とみられる。

 19日は夕方以降気温が低下。午後11時に気温が21度まで下がった。同11時10分ごろから空襲が始まり、気象を観測する福岡管区気象台近くでも火災が発生。気温は上昇に転じ、20日午前2時には24・4度に達した。湿度は夜に入って上昇、午後11時には85%だったが、20日午前2時には58%まで下がった。

 また19日夜の市内はほぼ無風だったが空襲開始後に風が強まり、20日午前0時29分には最大瞬間風速12・6メートルを記録。大規模な火災の中、燃焼して酸素を使い切った炎が周辺の空気を取り込んで上昇気流を発生させ、そこに周囲から強い風が吹き込み、火勢が増した可能性もあるとみられる。

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