差別、貧困の連鎖…韓国のハンセン病問題「現在進行形」 (2ページ目)

日本統治時代に始まった強制隔離 功罪半ばする「定着村」

 朝鮮半島におけるハンセン病患者の強制隔離は、日本統治時代の1916年、南西部・全羅南道の小鹿島(ソロクト)に当時の朝鮮総督府が小鹿島慈恵医院(現国立小鹿島病院)を開設したことに始まった。

1930年代の小鹿島慈恵医院(「写真で見る小鹿島100年 ハンセン病、そして人、百年の省察」から)

 朝鮮半島では35年、朝鮮らい予防令が制定され、同院は40年には約6千人超の患者を収容した。島内では患者の収容区域と職員が仕事や生活をする区域が厳格に区別され、断種や堕胎、強制労働、暴力といった人権侵害が行われた。

 45年に植民地支配から解放された後も、小鹿島更生園と改称した施設の職員らが80人超の患者を殺害する事件が発生。各地で強制隔離施設から逃走した患者が地域住民らに虐殺される事件などが相次いだ。韓国の国家人権委員会は2005年、韓国社会におけるハンセン病患者への根深い偏見と差別の慣行は「日帝時代に形成され、患者の強力な隔離政策と否定的な認識が大きく作用した」と指摘した。

 1954年に制定された伝染病予防法は63年に改定され、感染の恐れがある患者以外を強制隔離収容する規定は廃止された。政府は元患者や家族が集落を形成して畜産や農業で生計を立てる定着村事業を推進した。

 同事業は元患者らの経済的な自立を促した半面、地域社会に差別対象の特別な集落との印象を植え付けた。後に事業を検証した保健福祉省は2011年の報告書で「(元患者に)監獄である小鹿島から離れられる自由を与えたが、半分の隔離、半分の自由を提供した」と結論付けている。

 日韓両国で、旧植民地時代の元患者や家族の救済に向けた立法や司法の機運が高まったのは00年代に入ってから。補償関連の特別法の制定や、日韓両政府を相手取った訴訟で原告勝訴の判決が相次いだ。

 01年、元患者による国家賠償請求訴訟の熊本地裁判決で原告が全面勝訴したのをきっかけに、韓国と台湾の元患者らが提訴。06年のハンセン病補償法改正につながり、韓国と台湾の元患者本人が補償の対象となった。韓国でも08年、元患者が受けた被害事件の真相究明と生活支援などに関する法律が施行された。

 19年には熊本地裁が家族への差別被害を認める判決を言い渡し、旧植民地の元患者家族も対象とする家族補償法が成立。今年4月、韓国の元患者家族62人が厚生労働省に補償申請を行い、代理人弁護士らは潜在的な補償対象者の掘り起こしを続けている。

 

関連記事

PR

PR