異例の五輪開幕 東京は歴史に何を残すか

 幾多の困難を乗り越え、ついに開催にたどり着いたのか。それとも、無理に無理を重ねた強行にすぎないのか。

 東京五輪は今夜、開会式を迎える。参加国・地域から選手が集まる国立競技場に十分な熱気は期待できないだろう。無観客だから、だけではない。五輪開催自体について国民の賛否が大きく割れているためだ。

 日本で開かれる五輪は1964年夏季の東京、72年冬季の札幌、98年冬季の長野に続き4度目だが、これほど不穏な空気に覆われた大会はない。

■「社会ファースト」で

 五輪の光景を一変させたのは新型コロナウイルスに他ならない。現在の感染状況は1年延期を決めた昨年3月よりもはるかに悪化し、東京都は五輪の全日程が緊急事態宣言下にある。

 海外から入国した選手団や国内在住の大会関係者の感染確認が相次ぐ。「バブル方式」と呼ばれる感染防止対策はほころびが目立ってきた。選手村でのクラスター(感染者集団)発生も危ぶまれる。このまま、非常事態の大会が無事に終えられるのだろうか。憂慮に堪えない。

 57年ぶりの東京五輪を待ち望む人、無観客開催を支持する人も確かにいる。とはいえ、多くの国民は「こんな状況で開催して大丈夫か」と心配している。共同通信社が17、18日に行った世論調査で「五輪によりコロナ感染が拡大する不安を感じる」と答えた人は8割を超えた。

 五輪の開催が社会の不安を膨らませている。それが現実だ。この状況を招いたのは、日本政府や東京都をはじめとする大会運営の責任者たちである。

 五輪を含むスポーツイベントは「アスリートファースト(選手第一)」ではなく「社会ファースト」であるべきだ-。五輪マラソンのメダリストである有森裕子さんがテレビ番組で語った考え方だ。

 世界最大級のイベントである五輪とはいえ、社会との関係抜きには成り立たない。

 どんなアスリートも地域社会や国際社会の一員である。練習や大会ができる環境は社会が正常に機能することで整う。その基盤がコロナ禍で傷んでいるにもかかわらず、東京五輪は「開催ありき」で突き進んだ。

 感染や暮らしへの不安のない社会を取り戻した後、多くの人が歓迎する五輪を開く。それが本来の姿だったはずだ。

 国際オリンピック委員会(IOC)からは感染に苦しむ人や亡くなった人への配慮を欠く発言が続いた。ある委員は「アルマゲドン(世界最終戦争)でもない限り実施できる」と言い放った。これでは五輪開催への賛同の広がりは望めまい。

■開催意義は示されず

 私たちは5月の社説で、国民の理解と協力を得られないなら東京五輪は中止すべきだ、と主張した。その後もたびたび、コロナ下で五輪を開催する意義を示すべきだと問うてきた。

 政府の説明は変転した。「東日本大震災からの復興を世界に発信する」「人類がコロナに打ち勝った証し」は実態が伴わない。「未来を生きる子どもたちに夢と希望を与える」は空虚でさえある。

 残念ながら、政府や大会組織委員会、IOCは、国民が共感する言葉で開催意義を語ることはできなかった。世論を二分したまま開会式を迎えることになったのは、その結果である。

 それでも開催される以上、競技場の内外で感染対策が十分に機能し、選手が存分に力を発揮できることを望むしかない。1年延期に伴う心身の調整は容易でなかったはずだ。全ての競技の選手にエールを送りたい。

 この東京五輪はコロナ下に開催された大会として歴史に刻まれるだろう。負の側面から目をそらさず、今後の五輪へ教訓となるものを残す。そこに開催の意義を見いだしたい。

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