「水をあげてください」焼き尽くされた長崎で水を求め逝った被爆者を思い

 76回目の原爆の日が近づく長崎。平均年齢83・9歳と高齢化する被爆者たちは、惨劇の記憶を次世代に継承し、犠牲者の魂を慰めようと力を振り絞る。90歳の早崎猪之助さんは週1回、長崎市の平和公園にある「原爆殉難者之碑」で花に水をかけ、水を求めながら逝った人々の冥福を祈り続けている。

 7日、平和祈念式典のリハーサルが行われた平和公園の一角。「どうぞ、水をあげてください」。早崎さんは通り掛かった人に呼び掛けた。14歳で被爆した早崎さんの耳には今も犠牲者の悲痛なうめきがこびりつく。「水、水…」

 原爆投下時、爆心地から1・1キロの三菱兵器製作所大橋工場で働いていた。青い光が見えたと思うと爆風で吹き飛ばされた。長崎原爆戦災誌によると工場では最大300人が死亡。早崎さんが熱線に焼かれなかったのは、奇跡的に柱の陰に隠れていたからだ。

 真っ黒に焦げた人、やけどで皮膚が垂れ下がった人。外の光景は現実とは思えなかった。工場西側に約20棟あった西郷寮は竜巻のような火柱を上げていた。「助けてくれ!」。夜勤明けで寝ていたであろう工員の叫び声が聞こえた。「地獄を見た。どうしようもなく、ただ震えていた」

 長崎線沿いを歩くと、負傷者数十人が横たわっていた。水を懇願する同僚の声を聞いた。「水をやると死ぬ」。誰かがそう言ったが、放っておけなかった。

 焼き尽くされた町にきれいな水はない。田んぼの水を布団の綿に染み込ませて、口に運ぶとうれしそうに飲んだ。35人に飲ませ、再び水をくんで戻ると全員が息をしていなかった。「水だぞ!」。一人の胸をさすると、皮がずるりとむけた。自分が死に追いやったような罪の意識に襲われた。

 戦後は福岡県で働き、定年後に長崎市の企業に再就職した。2000年ごろの夏、外回り中に立ち寄った平和公園で、犠牲者76人の名前が彫られた碑を見つけた。自分と同じように兵器工場で働いていた動員学徒や女子挺身(ていしん)隊、一般市民だという。「この人たちも水を求めて亡くなったんだろうか」。バケツを買って水をくみ、花を手向けた。

 それから約20年、時間を見つけては足を運び、掃除するようになった。9日も水をくむ。そして、こう呼び掛けるつもりだ。

 「核兵器の悲惨さを亡くなった人が身をもって教えてくれたから、長崎が最後の被爆地となっている。だから、彼らの冥福を祈ってくれないでしょうか」

 (西田昌矢)

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