92歳「命ある限り語り継ぐ」 長崎原爆76年、元看護学生の決意

 1発の原子爆弾で街が壊滅し、7万人以上の命が奪われてから76年。9日、長崎の街は祈りと決意に包まれた。核兵器を一日でも早くなくすために。あの惨劇を二度と繰り返さないために。雨雲が去り夏の青空がのぞいた原爆投下時刻の午前11時2分。自らの体験を語る被爆者や、その思いを継ぐ次の世代が、それぞれに誓いを新たにした。

 長崎市の平和公園で営まれた平和祈念式典。被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げた岡信子さん(92)=長崎市=は壇上に向かう前に深く頭を下げた。その先には、この1年間に亡くなった原爆死没者3202人の名簿があった。

 過去最高齢の被爆者代表。「ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました」。原子野の救護所で3カ月間、次々と運ばれてくる負傷者を救護した体験を語り始めた。

 大阪日本赤十字看護専門学校の看護学生だった。空襲に見舞われた大阪から長崎市東北(ひがしきた)郷(現在の住吉町)の自宅に疎開。当時、16歳。食事の準備のために立ち上がろうとした時、爆風に飛ばされた。

 気が付くとがれきの中。母に助け出されると、左半身に無数のガラス片が突き刺さり、血で真っ赤になっていた。3日後、日赤長崎支部から緊急招集がかかり、新興善国民学校の救護所に向かった。

 皮膚が垂れ下がった人、内臓が飛び出した人…。3階建ての救護所には足の踏み場もないほど多くの負傷者が並べられ、それぞれが手招きして看護師を呼ぶ。「痛い、痛い」「水、水」。苦しみのあまり、上の階から飛び降りる者もいた。

 忘れられないのは、傷口に湧いた白いうじ。医療器具は満足な量がなく、ガーゼでこすって落とすしかない。スプーンを運んだ負傷者の口の中もいっぱいで、耳や鼻にも湧いていた。ガラスで切った自身の足にも-。遺体はトラックの荷台に投げ込まれ、運ばれた。「地獄のようだった」

 別の救護所に収容されていた父とは再会できたが、4年後に亡くなった。戦後、しばらくは看護師として働く。だが救護所の記憶がよみがえり長くは続けられず、原爆の話には口を閉ざした。

 転機は7年前。めいから「原爆の話を聞かせてほしい」と頼まれると、せきを切ったように言葉があふれた。「あの光景を語り継がなければ」と思った。

 2年前に腰の骨を折って歩行がおぼつかなくなったが、今でも大学などからの依頼で自身の体験を語る。この日の誓いでも、こう声を張った。「私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います」

 式典終了後、再び原爆死没者の名簿に目をやった。「核兵器がなくならない限り、安住の地はない。あそこの人たちは核なき世界を望んでいたでしょう」。大役を果たした安堵(あんど)感ではなく、強い決意がにじんでいた。 (西田昌矢)

 新興善国民学校の救護所 爆心地から3キロの新興善国民学校(長崎市興善町)に設けられた救護所で、長崎市内で最も多く原爆の負傷者を収容した。長崎原爆戦災誌によると、被爆翌日の8月10日に海軍の派遣救護隊が到着。医薬品も衛生用品も十分でないまま、衛生兵や日赤看護師が治療に当たった。市内各地に分散していた救護所を合わせて救護病院とし、8月17~31日に約8千人が運び込まれたとされる。9月以降は長崎市医師会などが運営した。

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