北天神にそびえた「黒船」 曲がらぬ商売への執念が渡辺通りを曲げた

「天神の過去と今をつなぐ」(8)「ショッパーズ」かいわい

 福岡市中心部の「昭和通り」と「渡辺通り」の交差点は、なぜ曲がっているのか―。同市・天神地区の歴史秘話を紹介する連載「天神の過去と今をつなぐ」の8回目は、その謎に行き着く商業施設「天神ショッパーズ福岡」や「ミーナ天神」の生い立ちを紹介します。今は名が消えた「松屋」創業者の執念が、渡辺通りを曲げ、ホークスの福岡移転に行き着いたようです。アーキビストの益田啓一郎さんが、北天神地区が発展した物語をつづります。

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 2021(令和3)年6月15日、福岡市・天神4丁目にある天神ショッパーズ福岡エリアの二つのビル(「イオンショッパーズ福岡店」と「ノース天神」)が、前身の「福岡ショッパーズプラザ」の開業から50年をひっそりと迎えた。

1971年6月、オープンした福岡ショッパーズプラザ※本紙DBより

 1971(昭和46)年6月の開業当時、「黒船来たる」と表現された。ダイエー創業者・中内㓛氏と、ミーナ天神の前身施設である松屋(マツヤレディス、旧松屋百貨店)の宮村勝夫氏がタッグを組んで生まれた大型商業施設。ダイエーの九州制覇に向けて、基幹店と位置づけて進出したものだった。

 開店は、ちょうど西鉄街と因幡町商店街で大火災が発生した直後。岩田屋や新天町を含めた既存の商業施設の危機感が最高潮に達していた。

 黒田家ゆかりの極楽寺

 イオンショッパーズ福岡店の区画の大部分は極楽寺という寺だった。

 現在、福岡市南区若久4丁目にある浄土宗の「清光山 極楽寺」。福岡藩主・黒田長政が1601(慶長6)年、イオンショッパーズ福岡店の場所へ移したという。福岡城の築城開始の頃で、一帯の町名も「極楽寺町ごくらくじのちょう」となった。

 一帯は、郵便番号制度の導入に伴う1960年代の「町界町名整理」により、現在の「天神4丁目」となり、寺は1970(昭和45)年に南区へ移転した。

1962(昭和37)年ごろ、九州朝日放送のテレビ塔から見た松屋(中央の白い建物)や天神中心部※著者所蔵写真

 極楽寺は、名島城主だった小早川隆景により再興されるなど古い歴史を持ち、「筑前国 続風土記」にも由縁が記載されている。山号の「清光山」は、2代目藩主・黒田忠之の妹の追号である「清光院」から付けられたそうだ。

 橋口町の松屋百貨店

 「昭和通り」側のミーナ天神がある場所は、福岡城下町のメインストリート「旧唐津街道筋」沿いの中心街・福岡六町筋のひとつ、橋口町の一角に位置し、明治以降、最も栄えていた場所だった。

 1911(明治44)年10月、博多電気軌道の開通により現在の「渡辺通り」が誕生した。電車通りは橋口町を南北に横切り、交差点北東の角地には、電車開通と同じタイミングで、宮村吉蔵が経営する「松屋モスリン店」が開業している。

1933(昭和8)年ごろ、福岡駅から松屋百貨店を望んだ天神の街並み※著者所蔵写真

 宮村は、博多織の老舗・松居博多織店で「小僧」からのたたき上げを経て販売部長の地位に就いた、商才にたけた人物である。電車の開通による将来性を見極め、好立地を確保しての満を持しての独立だった。宮村は1913(大正2)年2月、店名を「松屋呉服店」と改めると、数年ごとに増改築を進め、順調に事業を拡大していった。

 宮村は1932(昭和7)年2月、業態変更を行い鉄筋コンクリート4階建ての「松屋百貨店」を同じ場所で新築開店する。福岡市内では東中洲の松葉屋、玉屋に続き、天神地区では最初の百貨店誕生だった。

 呉服店時代に比べ、営業成績は数倍に伸び、翌年には6階まで増築し、売り場面積は1万平方メートルとなった。商売上手な宮村の経営・宣伝戦略は常に斬新で、6階建ての建物には九州で初めてのエスカレーターを登場させたことも話題を呼んだ。

 屋上には「世界初」と言ってもよい赤い照明、400万しょっこうの「回転照空灯」を設置。これは夜間の航空郵便輸送のための灯台で「松屋の航空灯台」として名物となった。

1933(昭和8)年、松屋屋上からの展望。右は航空灯台※著者所蔵写真

 当時のフロア案内をみると、上階には子ども向けの遊戯施設やミニ水族館などもある。屋上の展望場からは博多湾が一望でき、大人気のスポットとなった。

 1936(昭和11)年10月、九州初のターミナル百貨店として岩田屋が開店すると、松屋は岩田屋に対してライバル心をむき出しにて安売り合戦を仕掛けた。実は、宮村は九鉄福岡駅のターミナル百貨店誘致に真っ先に名乗りを上げたものの、交渉がまとまらずに断念した経緯があったそうだ。

 当時の福岡駅とは200メートルほどの距離。宮村は駅と直結する地下通路まで計画したというから、そのバイタリティーには驚かされる。いわば「天神地下街構想」の先駆けである。

松屋百貨店の広告(左=1936年、右=1933年)※著者所蔵

 岩田屋との顧客争奪戦では、定価販売が普通であった当時、割引販売を次々と繰り出し、映画招待券などさまざまなサービスを生み出していった。

 しかし、太平洋戦争が激化し、戦時統制による営業が困難になった1943(昭和18)年2月、松屋は廃業を決意する。松屋せいたんへと組織替えをし、なんと魚雷製造に転換したのである。

 松屋復興への願いがダイエー招致で実現

 1945(昭和20)年6月19日の福岡大空襲により、一帯は焦土と化した。松屋も被災したものの、建物の本体は残った。終戦後すぐに建物は占領軍が接収。宮村吉蔵は長男・堅一に経営を譲り、1952(昭和27)年に失意のうちに亡くなる。

 経営一族は戦後の1946(昭和21)年8月、新天町に洋服・洋品・文具店や「松屋グリル」などの店舗を出店し、一族で松屋工業・松栄工業・大牟田松屋・松屋クリーニングなど分散経営を行い、再起の機会をひそかに伺っていたという。

 旧松屋ビルは1952(昭和27)年春の接収解除後、賃貸契約により「正金ビル」となった。それから19年、「この地で松屋の再興を」と願った創業者の思いが結実する日がついにやってくる。

1968(昭和43)年ごろの渡辺通り。中央奥に旧松屋ビルが見える※著者所蔵写真

 宮村堅一から事業を継いだ吉蔵の孫・勝夫氏が、復活への起爆剤と考えたのが、当時すでに日本最大の大手スーパーとなり、勢力を全国で拡大していたダイエーと手を組むことだった。

 松屋復活を前提に、1963(昭和38)年には「正金ビル」の返却を受けて「松屋ビル」と改称し、北側の隣接地を取得して駐車場として展開。さらに、移転する極楽寺とその周辺の土地も取得して、再起に備えたのである。

 福岡ショッパーズプラザ開店

 1971(昭和46)年6月、福岡ショッパーズプラザは華々しく開店した。

 地上8階・地下2階建てのセンタービルとダイエービルからなり、二つ合わせて売り場面積は当時としては西日本最大の2万4000平方メートル。100店超の有力テナントが入り、そのうち35%が東京、大阪の名店であった。

(左)1971年8月、福岡ショッパーズプラザに完成した連絡通路・スカイロード(右)1971年11月、中国産野菜の売り出しで賑わう店内※本紙データベースより

 同年8月20日には、二つのビルの3階と6階が空中歩道(連絡通路)で結ばれ、スカイロードと名付けられた。九州でも初めてとなる、未来都市を想像させるビルの構造は大きな話題となり、瞬く間に福岡市随一の注目を集める商業施設となった。

 開店当日は、事前に募集した「3歳・6歳の子どもと家族、8月20日生まれの方、今年結婚予定のカップル」など、数字にちなんだ約100人が「記念渡り初め」を行い、同じく公募で決定した愛称「スカイロード」の表彰式などさまざまなイベントが行われた。当時の広告チラシからは、ダイエーと松屋のタッグならではのアイデアあふれる集客の仕掛けを読み取ることができる。

1971(昭和46)年8月20日の空中歩道開通記念バーゲンのチラシ※著者所蔵

 1971(昭和46)年6月、福岡ショッパーズプラザ開店と時を同じくして、正金ビル(旧松屋ビル)の解体が始まった。約2年後の1973(昭和48)年4月26日、女性にターゲットを絞った全国初の商業施設「マツヤレディス」が開業したのである。

 松屋復活!マツヤレディス誕生

 旧松屋百貨店の場所に「復活」したマツヤレディスは、地上8階・地下2階建て。売り場面積1万1134平方メートルで、市内初のシースルーエレベーターを備えた。開店当時のキャッチコピーは時代を経ても素晴らしいものだ。

(左)1976年ごろのマツヤレディス遠望、(右)1978年、福岡ショッパーズプラザ前を進む西鉄福岡市内線の路面電車※著者所蔵写真

 「光きらめくそよ風の中から、ひとりの『おんな』が誕生しました。その名はマツヤレディス。まわりの男っぽいビルに比べて、たおやかでやさしく女らしさにあふれています」

 開店のテープカットは石坂浩二と浅丘ルリ子。開店当日は国鉄ストと重なり、しかも朝から土砂降りの雨。それでも、午前10時の開店前には数百人の若い女性が並び、華々しく再出発を迎えたのである。戦前の百貨店時代を知る年配者は口々に「松屋さんが立派に2番花ば咲かせなざった」と喜んだという。

 開店当初から現在まで地下2階にテナントとして入居している「珈琲舎のだ」。この原稿の執筆前、当時店長として店を切り盛りしていた「ぶんカフェ」の吉留修二さんに当時のマツヤレディスについて聞いた。

1973(昭和48)年春、マツヤレディス開店で全施設が揃った福岡ショッパーズプラザのチラシ※著者所蔵

 当時は連日のように最高売り上げを更新する勢いがあった。1980年代も来客と売り上げの勢いは続いたと言い、優秀なテナントは毎年ダイエーから表彰された。吉留さんは、何度もハワイ旅行に招待されたそうである。中内㓛さんは来福した際、必ずといっていいほど珈琲舎のだで、至福の一杯を口にしたという。

 マツヤレディスの開店により、福岡ショッパーズプラザ計画は完成した。それまで天神交差点の南側に集積していた商業施設が北に広がるきっかけとなり、1976(昭和51)年9月に開業する天神地下街の計画にも影響を与えた。天神地区の魅力向上、商圏拡大への起爆剤となった。

 開業当時の広告チラシを見ると、ダイエーはこの場所を「新天神」と呼んでいた。残念ながらこの呼称だけは定着しなかったようである。

 松屋とダイエーが残したもの

 「松屋復活」の熱い想いに端を発し、ショッパーズが誕生してから半世紀がたった。

 そもそも、松屋はなぜダイエーと手を組んだのか?

 答えは宮村吉蔵の経営理念をまとめた「松屋憲章」に正解があるようだ。正札販売(定価販売)が当たり前だった時代から、常にお客様目線で事業を考えて「良い品を、安く仕入れ、少しでも安く提供する」と薄利多売を基本にしていた。

 これはそのままダイエー・中内㓛が目指したスーパーマーケットの考えと一致する。思想が同じ経営者同士がタッグを組むのは当然で、「黒船」と評された理由であろう。

 余談だが、昭和通りと渡辺通りが交差する天神橋口交差点は大きなS字のクランクになっている。松屋が橋口交差点角で開業した110年前、この通りはまっすぐ直角に道路が交差していた。クランクが誕生したのは、戦後の戦災復興都市計画に沿った道路拡幅のときである。

天神橋口交差点(中央)。大きなS字状のクランクになっている(2018年、本社ヘリから)

 橋口交差点より南は、渡辺通りの東側が立ち退いた。交差点角の旧松屋の建物は、いつか復興することを願い、立ち退き要請を頑として拒み続けた。その結果、交差点より北は道路の西側が拡幅され、大きなクランクと独特の都市景観が誕生したのである。

 元号が昭和から平成へと変った1989(平成元)年、プロ野球南海ホークスが福岡市にフランチャイズを移し、ダイエーホークスとなる。その足掛かりは、宮村氏と中内氏の「創業者の思い」が結実した福岡ショッパーズプラザの存在であったことは想像に難くない。

1999年10月28日、ホークスの優勝記念セールに並ぶ買い物客ら※本紙DBから

 時代は平成から令和へ。すでに松屋もダイエーも存在しないが、福岡の人々にはかつてのにぎわいがしっかりと記憶されている。施設の経営者や名称は変わったが、様々な記憶が詰まっているビルは、できれば1年でも長く有効活用してほしいものだ。

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 益田啓一郎(ますだ・けいいちろう) 1966年大分県生まれ。ゼンリン子会社を経て2000年に独立後、社史・地域史の執筆、編集に携わりながら10万点超の古写真と絵はがきを収集してきた。近年では西日本鉄道(福岡市)創立110周年史の執筆、「にしてつWebミュージアム」を監修してきた。博多・冷泉地区まちづくり戦後史、博多祇園山笠「西流五十周年史」など、地域の近現代史の記録活動も継続。NHKのテレビ番組「ブラタモリ」や、地元テレビ局、映画、舞台などの時代考証や企画、監修も担ってきた。著書に「ふくおか絵葉書浪漫」「伝説の西鉄ライオンズ」など。

渡辺通の先に堂々とした姿を見せるミーナ天神(旧松屋ビル)=2021年8月※画像の一部を加工しています

 次世代の姿へ生まれ変わりつつある福岡市の中心部、天神地区。新たな都市空間と雇用を生み出す福岡市の「天神ビッグバン」プロジェクトがきっかけです。福岡をはじめ九州各地の「街」に関する膨大な資料を収集し、その近現代史を研究し続けているアーキビストの益田啓一郎さん(54)=福岡市=が、再開発エリアの過去と今をつなぐ歴史解説へ、皆さんをご案内します。 ※アーキビスト(Archivist)=文化、産業的な価値ある資料を集め、それらを意義付けしながら活用する人材。

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