中国から来た私にとっての「お母さん」 急すぎた別れ…今も聞こえる口癖

麗しき夢 【36】

(2021年1月30日掲載、肩書などは当時)

 一年で最も寒いとされるこの時季になると、決まって優しい笑顔が目に浮かんでくる。尊敬する宇津木妙子さんの母で、私も「お母さん」と呼んでいた恵美子さんとの別れが「大寒」と重なったからだ。今から20年前の2001年1月、天に召された。享年78。「しっかり!」が口癖だった。

 中国出身の私は1988年春、24歳のときに来日した。妙子さんが指揮を執る日立高崎(現ビックカメラ高崎)に加入。最初の4年間は埼玉にある妙子さんの自宅に下宿し、寝食をともにした。日本国籍を取得する前で中国名「任彦麗(にん・えんり)」の私はお母さんから「ニン!」や「エンリ!」と呼ばれていた。聴講生として群馬の短大に通いながらソフトボールの練習に打ち込む私のため、早朝5時には朝食を取れるように準備してくれた。

 キュウリとミョウガを入れ、ごまだれでいただく冷やしうどんは絶品だった。日本であれ以上の美味に出合ったことがない。食が細くカレーライスと中華料理しか口にできなかった私が日本を好きになる原風景のような味になった。キスも忘れられない。試合で打った日は帰宅後、必ずほっぺにしてくれた。入れ歯だったので吸い付くような感じだった。音がチュッチュッ鳴り、くすぐったくても、早くして母を亡くし、異国で暮らす身には家族のぬくもりを実感するかけがえのない時間でもあった。

 20年前、お母さんの誕生日の次の日に、私はバースデーの「おめでとうコール」を入れた。日取りも決まっていた妙子さんの結婚披露宴の話で1時間ほど盛り上がった。娘が嫁ぐことになり、幸せに満ちた声だった。翌日、妙子さんから泣きながら訃報を聞かされたとき、信じられなかった。あんなに元気だったのに一瞬にして魂がなくなるなんて、信じたくなかった。私との電話の後に突然、体調を崩したという。結果的に私がお母さんと最後に会話をしたことになった。

 実の母が亡くなったときは17歳。自身の性格についてよく分かっていなかった。お母さんのときは37歳。「一日一日を悔いなく生きよう」と誓ったのを覚えている。頭と体…自分の能力を使い、出し切って生きていくんだ、と。若い選手との会話でも「もっと親を大切にしなさい」と諭すようになった。その後、2004年には父が他界。私には「日本の親」に加えて、両親もいなくなった。自分にとって「甘えさせてくれる場所」がなく、本当の意味で「大人」にならなければと思うようになった。決断力も早くなった。誰に何を言われても揺るがず、己の思い通りにやることが一つの行動指針になった。

 お母さんは私の一番の応援団だったかもしれない。東京五輪まで半年を切った。コロナ禍で開催の是非が取り沙汰される中、私たちは毎日を悔いなく生きることしかできない。天国からの「しっかり!」の声にうなずいてみる。恥ずかしかったキスの嵐が懐かしい。(ソフトボール女子日本代表監督)

 ◆宇津木 麗華(うつぎ・れいか)1963年6月1日生まれ。中国・北京市出身。元中国代表。88年来日、95年日本国籍取得。現役時代は内野手で日本代表の主砲、主将として活躍し、シドニー五輪銀メダル、アテネ五輪銅メダル。2003年に日立&ルネサス高崎(現ビックカメラ高崎)の選手兼任監督就任。04年に現役引退後は11年から15年まで代表監督を務め、12、14年の世界選手権優勝。16年11月、再び代表監督就任。群馬女子短大を聴講生として卒業。右投げ左打ち。

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